【豊臣兄弟!】13歳で末姫(池端杏慈)と祝言?秀長の後継者となった「羽柴秀保」の生涯【前編】

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【豊臣兄弟!】13歳で末姫(池端杏慈)と祝言?秀長の後継者となった「羽柴秀保」の生涯【前編】

羽柴与一郎(大西利空)を喪った後、羽柴秀長(仲野太賀)は自身の後継者として羽柴秀保(はしば ひでやす。豊臣秀保)を養子に迎えました。

果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。今回の記事が、大河ドラマ「豊臣兄弟!」を楽しむ参考になれば幸いです。

本当に姉ともの子?

幼少期の御虎丸(イメージ)

羽柴秀保は天正7年(1579年)に秀長の姉とも(宮澤エマ)と三好吉房(上川周作)の三男として誕生しました。

しかし当時ともは46歳(天文3・1534年生まれ)、もし秀保を彼女が生んだとしたら、かなりの高齢出産と言えるでしょう。

よって養子説が浮上するものの、では実両親は誰なのでしょうか。例えば、吉房がよその女性と子供を作ってしまった可能性が考えられます。

その女性を側室には認められず、事を公にする訳にもいかないため、渋々ともの子として引き取ったのかもしれません。もちろんその場合、女性は追放です。何なら後の憂いを断つため、命もなかったことでしょう。

とは言っても46歳で出産した可能性も否定はできません。そこでここでは、あくまで秀保がともと吉房の実子である前提で話を進めていきます。

秀保は幼名を御虎(おとら)または辰千代(たつちよ)と言い、次兄の羽柴秀勝(幼名小吉)とは10歳差、長兄の羽柴秀次(幼名万丸。山田涼介)とは11歳の年齢差がありました。

ちなみにこの羽柴秀勝は、かつて秀吉が織田信長(小栗旬)からもらった養子の羽柴秀勝とは同姓同名の他人です。

やがて天正12年(1584年)に長兄の秀次が秀吉の養子、すなわち後継者候補となると、秀勝・秀保はその恩恵で着々と出世していきました。

仙丸を追いやり秀長の後継者に

仙丸を押しのけ?秀長の後継者に(イメージ)

天正16年(1588年)1月8日にはまだ10歳の幼さで侍従(じじゅう)に叙せられ、同日に秀長の養子となることが決まったと言われています。

なおこの時点で、秀長には仙丸(せんまる。のち藤堂高吉)という養子がいました。この仙丸は丹羽長秀(池田鉄洋)の三男として生まれ、元は秀吉が丹羽長秀に頼み込んで養子に迎えています。

信長死後の権力抗争に丹羽長秀を取り込むための策略でしたが、天正13年(1585年)に丹羽長秀が亡くなると、用済みになったから秀長に押しつけたのです。

秀長も実子がいなかったため、これを受け入れたのですが、きっと複雑な気分だったことでしょう。仙丸にしてみれば、失礼以外の何者でもありません。秀吉とはそういうヤツ(だが、それでこそ秀吉)です。

かくして秀長の後継者候補として養われていたのですが、このたび秀保を養子に迎えるとなれば、仙丸は後継者候補の座を明け渡さざるを得ません。

可哀想な仙丸……羽柴兄弟からさんざん弄ばれた挙げ句、秀長家臣の藤堂高虎(佳久創)に養子入りすることとなりました。

当初は男子がいなかったため、藤堂家の後継者候補として遇されていましたが、やがて高虎に実子・藤堂高次(たかつぐ)が生まれると、藤堂家でも肩身が狭くなってしまったそうです。ちょっと仙丸が不憫すぎて物語が脱線してしまいましたが、話を秀保に戻しましょう。

秀長の養子となった秀保は13歳となった天正19年(1591年)1月に秀長の長女と祝言を上げました。大河ドラマでは末姫(池端杏慈)が長女という設定になっていますが、この「長女」はまだ4~5歳と考えられています。この辺りについては適宜アレンジを加えるのでしょう。

ともあれ正式に後継ぎを世に披露できた安堵からか、既に瀕死であった秀長は同年1月22日に世を去り、秀保がその家督を継いだのでした。

豊臣一門の筆頭格に

かくして秀保が家督を継ぐと、家老の藤堂高虎と桑山重晴(住田隆)が後見人となってその治政を補佐します。

ただしそれでも心もとないと思われたのか、それまで秀長が領有していた大和(奈良県)・紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府南西部)の3ヶ国と伊賀国(三重県西部)の一部から、大和・紀伊2ヶ国を除く所領は召し上げられてしまいました。

それでも大和・紀伊の所領は広大なものです。また秀長が悪名高い金融政策・奈良借(ならかし)や紀州材木取引(利益の着服)で蓄えた莫大な財産で、その懐は豊かだったことでしょう。

ともあれ家督継承にともなって秀保は従四位下(じゅしいのげ)・参議(さんぎ)および近衛権中将(このゑのごんのちゅうじょう)に叙せられ、秀吉から豊臣の姓を与えられました。

また天正20年(1592年/文禄元年)には従三位(じゅさんみ)・権中納言(ごんのちゅうなごん)へ昇叙し、人々からは大和中納言・郡山中納言などと呼ばれるようになります。

養父の秀長が生前に大和大納言(だいなごん)と呼ばれていたため、それに対応したものでした。

同年2月には春日大社へ参拝し、広く大和国内外に対して新しい大和国主の権威を示すために家督始めの儀式を執り行っています。

このように叔父の秀長が持っていた権力を引き継いだ秀保は、官位などにおいて次兄の秀勝を上回っていました。

特に長兄の秀次が、秀吉から関白職を譲られた天正19年(1591年)12月28日以降、秀保は豊臣一門の筆頭格として扱われます(もちろん秀吉は殿堂入り)。

いっぽう諸大名に対しても、秀保の存在感は非常に大きなものでした。例えば文禄2年(1593年)に諸大名らと連名で提出した起請文には、徳川家康(松下洸平)に次いで署名があり、豊臣一門外でも五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)に並ぶ存在であったことがわかります。

【後編へ続く】

※参考文献:

黒田基樹『シリーズ・織豊大名の研究 13 羽柴秀吉一門』戎光祥出版、2024年11月 柴裕之『シリーズ・織豊大名の研究 14 豊臣秀長』戎光祥出版、2024年11月

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