【ブラッサム】珠の同級生・角田忍が憧れた「平塚らいちょう」とは?『青鞜』が女学生の心を揺さぶった理由
朝の連続テレビ小説「ブラッサム」。
第2週『父からの、解放』では、大正2年(1913)高等女学校の四年生となった葉野珠(石橋静河)と共に、仲良しの同級生も初登場しました。
中でも個性が際立ったのは、学校の「良妻賢母」教育や、一方的に自分の縁談を決める親に対し不満や違和感を覚え「自分らしく生きたい!」と行動に出る角田忍(木竜麻生)でした。
『ブラッサム』良妻賢母に抗う同級生・角田忍に絶賛の声!その魅力や実在モデル、宇野千代との関係を考察「ブラッサム」公式の角田忍の人物紹介では…
珠が通うことになる高等女学校のクラスメート。
反骨心が強く、行動力みなぎる、たくましい性格の持ち主。
そんな彼女が憧れているのが、実在の人物・平塚らいちょうです。
友人らの目の前で「原始、女性は実に太陽であった」と、『青鞜』を読み上げ「うちも、らいちょうみたいにものが言えたら」と、感無量で本を抱きしめる姿が印象的でした。
『青鞜』は、この2年前の明治44年に、らいちょうが創刊した雑誌です。
国が女性に「良妻賢母」教育を推奨していた時代。
忍のように、窮屈な社会に疑問を感じた女性たちに羽ばたく勇気を与えた「平塚らいちょう」や『青鞜』は、どのような存在だったのでしょうか。
平塚らいちょうに憧れ、同人誌を作る角田忍。(NHK「ブラッサム」公式「X」より)
「女性を人として教育」に感銘を受けたらいちょう平塚らいちょう(らいてう)の、本名は明(はる)といいます。
明治19年(1886)2月10日、東京市麹町区土手三番町(現在の千代田区五番町)の裕福な家庭に生まれました。父は明治政府の高級官吏で教育熱心だったそうです。
女性が自由に生きられない社会に疑問を抱いたらいちょうは、日本女子大学の設立者、成瀬仁蔵(なるせじんぞう)が書いた『女子教育』に感銘を受け、第3回生として家政学部に入学しました。
仁蔵は、“女性が本を読むことを恥とし夫の奴隷となっている国”の例などを挙げ、無学文盲で婦女の真価を持たない国は「文明開化の幸いなく」と述べていたそうです。
「昔よりどの国にても女の価値をしらずして持たざ る国は必ず開花することなし。」(成瀬仁蔵の女子教育思想-「婦女子の職務」から-永藤清子)
仁蔵は、明治時代「人=男性」を意味していた社会の中で「女性を人として教育すること」を第一に掲げた、日本における女子高等教育開拓者の一人です。
さまざまな批判を受けながらも、女性の覚醒と自立を促し、教育全般の改革に力を注ぎました。(日本女子大学「学園の特徴」「創立者 成瀬仁蔵」)
『実践倫理』の授業で質問する積極的な生徒
高級官吏だったらいちょうの父は、欧米視察巡遊した経験からハイカラで自由な欧米的な考えだったものの、その考えを捨て去り「国粋主義」的な考えに変わっていったそうです。
らいちょうは、「女子には女学校以上の学問は必要ない」という父を説得して日本女子大に入学しました。
学中は、成瀬仁蔵が創立以来続け、現在、科目名を変えて継承されている『実践倫理』の授業にて自ら質問をぶつけるなど、積極的な学生でした。(日本女子大学 女性・平和運動のパイオニア 平塚らいてう)
「元始、女性は太陽であった」で知られる『青鞜』の創刊
らいちょうの生涯を代表する出来事のひとつが、明治44年(1911)に青鞜社を設立し、文芸誌『青鞜』を創刊したことでしょう。
当時25歳だったらいちょうは、評論家で小説家でもあった生田長江に女性だけの文芸誌の発行を勧められます。
さらに、日本女子大学の同窓生に後押しされ、女性の知友と共に発起人となりました。
創刊の辞に記された「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」という言葉は、女性が本来持つ力を取り戻そうという強いメッセージでした。
この言葉は、「ブラッサム」の忍のように、社会から抑圧され息苦しい思いをしていた女性たちの心に深く響き、雑誌は大きな反響を呼んだそうです。
下の写真は、凛とした佇まいの女性の全身像が描かれている『青鞜』の表紙です。
当時の日本女性の絵画というと、着物姿で控えめ、従順な雰囲気のイメージが多いように感じますが、この女性は強い視線を上に向け堂々とした姿勢が特徴。
「新しく自立する女性」というイメージを出したのでしょうか。
この表紙は、『智恵子抄』などの詩集で有名な高村光太郎夫人となる女流画家・長沼智恵子が描いたものです。
創刊号の表紙。長沼智恵子(後の高村智恵子)が描いた。wiki public domain
日本の画家 高村智恵子 wiki public domain
教養のある知的な女性『ブルーストッキング』=『青鞜』『青鞜』という言葉は、18世紀のイギリスで因習に反する女性をBlue Stockingsと呼んだことに由来します。本の創刊を進めてくれた生田長江が命名しました。
ブルーストッキングは、教養のある知的な女性を指す英語で、元々は18世紀のイギリスで結成された上流婦人のグループであるブルー・ストッキングス・ソサエティの会員を指す言葉だったそうです。
創刊号は、予想を上回る反響があり、一年後の青鞜社主催の講演会には、満員御礼の千人が集まったといわれます。「青鞜」が大胆な自我の主張と女性だけで独立の言論の場を持ったことは、社会に大きな影響を与えました。(白つつじの会〜生田長江顕彰会〜)
多くの女性に支持されながらも、“良妻賢母が女性の生きる道”としていた当時の社会は、「新しい女性」の主張を簡単には受け入れませんでした。
『青鞜』は何度か発禁処分を受けたり、らいちょう自身も世間から厳しい批判を浴びたりしたそうです。
それでも彼女は活動を続け、大正3年(1914)28歳頃からは、画家の奥村博史と事実婚の生活を始めます。
婚姻届を出さない選択は、当時の家父長制や結婚制度への静かな抵抗でもあったといわれています。(27年後、55歳の頃に婚姻届を提出)
平塚と夫の奥村博史。1914年夏、伊豆の土肥温泉にて。wiki public domain
85歳で亡くなるまで女性の権利と平和を訴える活動さらに、らいちょうの大きな功績として挙げられるのが、1919年から1920年にかけて、日本初の婦人団体「新婦人協会」の結成をしたことでしょう。
婦人運動活動家で政治家の市川房枝や奥むめおらと力を合わせ、婦人参政権の獲得や母性保護(妊娠、出産など特有の母体機能を持つ女性を労働の場で特別に保護する)を求めました。
この運動は、治安警察法の一部改正を実現し、女性が政治集会に参加できるようになる・女性が弁護士になることを可能とするほか“戦前の女性運動として画期的な成果を残した”といわれています。
そして、昭和21年(1946)60歳で、日本国憲法の戦争放棄や平和精神に共鳴。
市川房枝とともに再軍備反対婦人委員会を結成し委員長となったり、湯川秀樹らとともに世界平和アピール七人委員会のメンバーとなったりほか、1971年に85歳で亡くなるまで女性の権利と平和を訴える活動を続けました。
昭和30年(1955)平塚らいちょう wiki public domain
らいちょうが女性たちを惹きつけたわけ大正初期の高等女学校では、ドラマ「ブラッサム」に描かれたように、「他日中人以上の家に嫁し、賢母良妻たらしむる」ための教育が主流でした。
さらに、ヒロインの珠や忍の家のように、父親の権威が絶対的で、“女性の人生は結婚と家庭に限定されるのが当然”という社会でもありました。
そんな中で「新しい女」宣言をし、女性自身が主体的に考え・語り・選び・輝くことを肯定した『青鞜』は、忍のように「自分のことは自分で決めたい」と思う女性には、すっ〜と心の中に浸透していく存在だったのではないでしょうか。
「自分は他人によって光らせてもらう月ではなく、自ら輝きを放つ力強い太陽でありたい」という思いは、自立できる仕事を求める若い女性の心を揺さぶったことでしょう。
ドラマの中では「『青鞜』を読んでいるところを先生に見つかったら大変!」と、慌てて忍の朗読を止めようとする女学生の姿も描かれていました。
雑誌の中で語られる自由な恋愛観・社会への疑問などは、学校でも家庭でも許されない「危険な思想」だと思われていたのかもしれません。
けれども、自由を夢見て羽ばたきたい若い女性にとっては、それが魅力にみえるもの。
『青鞜』は、そんな女性の抑圧された自我を目覚めさせ、未来に希望を抱ける道標として、忍のような反骨の精神を持つ女学生たちの心を動かしたのでしょう。
「新しい女」を主張する女性運動家と聞くと、声高らかに勇ましく主張を叫ぶようなイメージもありますが、実はらいちょうは声が小さく、演説は苦手だったとか。素顔は家族を愛する物静かな女性だったそうです。
「うちも、らいちょうみたいにものが言えたら」と憧れる忍は、どのようにその思いを叶えていくのでしょうか。
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・成瀬仁蔵の女子教育思想-「婦女子の職務」から-永藤清子
・日本女子大学「学園の特徴」「創立者 成瀬仁蔵」
・白つづじの会〜生田長江顕彰会〜
・八千代市「平塚らいてう―コラム私たちの心を動かした5人の女性(2)」
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