まさに逃げ上手!『豊臣兄弟!』で割愛、秀吉の紀州攻めに抗った土橋春継の怒涛の逃避行を一挙紹介

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まさに逃げ上手!『豊臣兄弟!』で割愛、秀吉の紀州攻めに抗った土橋春継の怒涛の逃避行を一挙紹介

天正13年(1585年)、豊臣(羽柴)秀吉(池松壮亮)は紀州攻めに乗り出しました。

紀州(紀伊国)には雑賀衆(さいかしゅう)や根来衆(ねごろしゅう)などの寺社勢力が蟠踞しており、秀吉の侵略に立ち向かいます。

今回はそんな雑賀衆の一人・土橋春継(つちはし はるつぐ)を紹介。果たしてどんな戦いを演じたのでしょうか。

本願寺の武将として活躍

奮戦する春継たち(イメージ)

土橋春継は紀伊粟村城主(和歌山県和歌山市)で紀伊国名草郡を支配する土橋胤継(たねつぐ)の子として誕生しました。

生年や生母については詳しくわかっておらず、きょうだいには土橋平次(へいじ)・泉職坊快厳(せんしきぼうかいげん)・女子(威福院)・土橋くす千代・女子(鈴木重秀室か)らがいます。

元服して通称を平尉(へいのじょう。平丞・平之丞とも)と名乗り、諱を春継と称しました。

※土橋重治(しげはる)の名でも知られますが、こちらは史料による裏づけがありません。

生い立ちや幼少期などは詳しくわかっておらず、歴史上に姿を見せるのは石山合戦となります。

織田信長(小栗旬)が石山本願寺を攻め、元亀元年(1570年)9月から天正8年(1580年)8月まで、約十年間にわたり激戦を繰り広げました。

春継は石山本願寺に立て籠もって籠城戦を支えたほか、天正7年(1579年)には織田軍の包囲を突破して播磨国三木城へ兵糧を運び込む任務を果たしています。

敵中を突破できる武勇と剛胆、また大軍に屈せず敵に寝返らない忠義を評価されていた証と言えるでしょう。

父を殺される

奮戦虚しく、降伏する春継たち(イメージ)

しかし石山本願寺が織田家と和睦(実質的には降伏)すると、土橋父子もまた信長の軍門に降りました。

春継は父の胤継と連名で起請文を書き、それを織田武将の佐久間信盛(菅原大吉)と松井友閑(まつい ゆうかん)にあてて差し出しています。

かくして織田家臣となった春継ですが、その地位は永く続きませんでした。

天正10年(1582年)1月、父の胤継が鈴木重秀(すずき しげひで)によって殺されてしまったのです。

重秀は春継たちと同じ雑賀衆なのに、なぜでしょうか。恐らくは雑賀衆の中でも、織田家中における地位や利権をめぐって対立があったものと考えられます。

信長に叛旗を翻す

奮戦する春継たち(イメージ)

しかも重秀の犯行は、信長がお墨付きを与えたものでした。つまり信長は重秀らを重んじ、土橋一族は切り捨てるつもりなのでしょう。

こんな仕打ちを受けてまで、織田家に忠義を尽くす道理などありません。かくなる上は一矢報いてくれよう……春継は弟たちと共に謀叛の兵を挙げました。

しかし織田信張(のぶはる。信長遠戚)の加勢を得た重秀に攻め立てられ、粟村城に立て籠もるも堪え切れません。

やむなく春継は弟の平次と共に城を脱出し、敵中をくぐり抜けて海を渡り、土佐国(高知県)まで逃れました。

しかし弟の泉職坊と、末弟くす千代は途中で追っ手に捕らわれてしまいます。

泉職坊は混乱の中で殺されてしまいましたが、くす千代は旧主の顕如(けんにょ。本願寺宗主)が仲立ちとなって助命されました。

しかしその後、くす千代が元服したという記録がないため、恐らくは亡くなってしまったのでしょう。

助命されたとは言え、無傷だった保証はないため、追っ手によって負傷していたのかもしれません。

秀吉への仕官を辞退

信長の死に乗じて挙兵を目論む春継たち(イメージ)

かくして土佐国へ逃れた春継ですが、数ヶ月後の天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が横死を遂げると、雑賀の地に舞い戻りました。

そして信長を討った明智光秀(要潤)に与すると、高野山や根来衆と連絡を取り合って畿内制圧の準備に取りかかります。

しかし秀吉が中国大返しを断行し、山崎の戦いで光秀を討ち滅ぼすと、にわかに風向きが変わってしまいました。

春継に対して秀吉から臣従の招きがあり、はじめ春継もこれを受けようとしていたようです。

が、父の仇である重秀が秀吉に臣従したと聞いて、春継は激怒。秀吉への仕官を辞退したのでした。

これが運命の分かれ道となり、春継は秀吉に抗い続けることとなります。

秀吉に紀州を追われる

秀吉に紀伊国を追われる春継たち(イメージ)

天正12年(1584年)に秀吉と徳川家康(松下洸平)が小牧・長久手の戦いを繰り広げると、春継らは家康に与しました。

そして紀州から北上し、秀吉が出陣中で不在となっていた本拠地の大坂を脅かします。

このため、秀吉は家康と対峙しながら、大坂と前線を往復しなければなりませんでした。

かくして春継たちは、織田政権を乗っ取り、増長する羽柴政権を西から脅かし続けます。

しかし秀吉が家康と和睦してしまうと、秀吉の矛先はこちら紀州へ向けられるようになりました。

翌天正13年(1585年)の紀州攻めでは粟村城に立て籠もって抗戦しますが、大軍に圧倒されてしまいます。

春継は再び海を渡って土佐国へ逃げ込みましたが、同年中に羽柴秀長(仲野太賀)を総大将とする四国攻めが行われました。

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四国から関東そして中国地方へ

再起を図る春継たち(イメージ)

ほどなく長宗我部元親(磯部寛之)が秀長に降伏すると、土佐にもいられなくなってしまいます。

そこで春継は四国から脱して関東まで逃げ延び、今度は北条氏政(谷原章介)に仕官しました。

しかしそれも永くは続かず、天正18年(1590年)に北条氏が秀吉によって滅ぼされると(小田原征伐)、もう秀吉に逆らう勢力は日本のどこにもいなくなってしまったのです。

ついに年貢の納め時かと思いきや、春継はまだまだ諦めません。関東から思い切って中国地方へ逃げ込み、毛利輝元(濱省悟)に仕えたと言います。

これをもって、土橋春継は歴史の表舞台から姿を消したのでした。

終わりに

何度敗れても立ち上がり、生き永らえた春継たち(イメージ)

今回は秀吉の紀州攻めに立ち向かった土橋春継について、その生涯をたどってきました。

春継の足跡をたどると、

紀伊(出身)→石山本願寺(籠城)→紀伊(臣従)→土佐(逃亡)→紀伊(再起)→土佐(逃亡)→関東(逃亡)→中国(逃亡)

という、実に立派な逃げぶりと言えるでしょうか。

ここまでの逃げ上手であれば、いっそ朝鮮半島や大陸まで逃げて欲しかったくらいですが、残念ながら春継の晩年や最期について、詳しいことはわかっていません。

他にも興味深い戦国武将がたくさんいるので、また改めて紹介したいと思います。

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※参考文献:

鈴木眞哉『紀州雑賀衆 鈴木一族』新人物往来社、1984年7月 戦国合戦史研究会 編『戦国合戦大事典 第四巻 大阪 奈良 和歌山 三重』新人物往来社、1989年3月 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年10月

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