【ブラッサム】最速離婚した夫の弟が「2度目の夫」に!史実での再会と同棲、モデル・宇野千代が辿った波乱の愛
朝の連続テレビ小説「ブラッサム」第2週『父からの、解放』。
ヒロイン・葉野珠(石橋静河)が通う山口第二高等女学校は、「良妻賢母」教育に力を注ぐ学校でした。
ほとんどの生徒が「お嫁さん」を夢見るなか、「親が決めた結婚はまっぴら」という反骨心ある珠の友人・角田忍(木竜麻生)に誘われ、珠は同人誌作りに参加し小説デビューします。
作品は同級生の間で評判になりご機嫌になった珠……でしたが、それも束の間、父・清治(渡部篤郎)により勝手に縁談を決められてしまいました。
「おとと様が決めたこと。従うしかない」と嫁いだのは、珠の実母の妹・木村照子(山田真歩)の長男で、役所務めの享一(小堀正博)。
祝言の席では、珠と目も合わせません。
実は、色街通通いばかりする享一に手を焼いた両親が、「妻ができれば変わるかも」と強引にまとめた縁談だったのです。
話しかけても、「いらん」という“存在を否定する”ような夫の言葉に、珠は突然「やめじゃ!」と婚家を飛び出します。
最速離婚にSNSでは「いいぞ!珠」の声が。
闇夜の中を逃げていく珠の背中を、「それがええ!」と微笑みで見送ったのが、享一の弟・保(金子大地)でした。
兄とは正反対で誠実そうな保。
実は、珠のモデル・宇野千代の2回目の夫となる男性でした。
珠の従兄で、最初の夫の弟である木村保。(NHK「ブラッサム」公式「X」より)
色街通いの長男を押し付けられた珠「ブラッサム」のドラマ内で珠が嫁いだのは高等女学校の四年生の頃。
祝言の席で、珠のことを見向きもしない夫に困惑する珠の表情に気が付いたのは弟の保だけ。心配そうに見つめていました。
珠は、祝言後「享一も嫁を貰えば色街通いをやめて落ち着くかと思った」「珠には我慢してもらうしかない」という義理の両親の会話を聞いてしまいます。
悄然とし縁側に立ち尽くす珠に、保は「兄は色街通いで、深い仲の女がいる」ことを告げ、謝りました。
享一の問題を隠し珠に押し付けた義理の両親。
婚礼の夜から色街通いする享一。
珠に何の相談もなしに嫁がせた父・清治。
“そういうこともある時代”……とはいえ、はめられた感の結婚。
婚礼前に、義母のリョウ(国仲涼子)は「結婚は辛抱。少しづつずつ夫のいいところを見つければ大丈夫」と言ってましたが、それどころの状態ではありません。
「やめじゃ!」と婚家を飛び出した珠に喝采する視聴者は多かったようです。
今までは「でも、とと様が…」と決断に迷いがちな珠でしたが、実は本来持っている、決断力や行動力が浮上してきたことを思わせるような胸のすく場面でした。
祝言の席なのに珠を見ようともしない享一。(NHK「ブラッサム」公式サイトより)
最初の夫の弟と二度目の結婚ドラマの公式「X」では木村保の役柄について
叔母・照子の次男であり、珠のいとこ。学業優秀でユニークな一面を持つ青年。泰然自若で、誠実な人柄もあいまって、不思議なオーラを放つ。
と紹介しています。
色街にはまっている兄にも、それを隠して縁談をまとめた両親にも、怒りを覚えていたのでしょう。
木村一家の中で、唯一誠実な人間そうな保。
保のモデルは、実際に宇野千代の実母・宇野トモの姉の息子で、千代とは母方の従兄妹・藤村忠と推測されています。
実際、宇野千代は、最初に兄・藤村亮一と結婚するも、わずか10日で終わっています。
その後、弟と二度目の結婚をしたのでした。
兄と違って誠実で優しそうな木村保。NHK「ブラッサム」公式「X」より
卒業後、弟と運命的な再会史実では、明治44年(1911)11月、まだ14歳だった宇野千代はドラマと同様に、実母トモの姉・藤井カツの長男で3歳年上の藤井亮一と結婚しました。
現代と比べて昔は早婚だったとはいえ、14歳といえば中学2年生くらい。
実際、大正9年(1920)の国税調査では、平均初婚年齢は男子25歳、女性21.2歳だったようです。
千代14歳と亮一17歳の結婚は、かなり早かったのではないでしょうか。
宇野千代の自伝的小説『生きて行く私』では、縁談が来たときに父がすぐに承知した理由について、以下のように書いてます。
このことはのちになって、私たちの間で話合わされたことであるが、父は自分の余命幾何もないことを悟って、自分の生きている間に、私の嫁入りさきを決めておきたかったのではないか、ということであった。(『生きて行く私』)
毎晩に出掛けてしまう17歳の夫とは仲良くなることもなく、婚家の雰囲気にもなじめず、10日で実家に戻ったのでした。
この後、宇野千代は、大正3年(1914)に岩国高等女学校卒業後、川下村小学校代用教員になりますが、同期の新任教師との職場恋愛が問題になり、翌年に同校を退職します。
学校時代の教師を頼り朝鮮の京城(現在のソウル)に渡り、大正5年(1916)には帰国。そして、前夫の弟・藤村忠(※)と再会しました。
2人の出会いは、千代が『おはん』にも登場する臥龍橋のたもとへ、弟妹を連れて出かけた際、岩国城下町の鉄砲小路に住む伯母と、京都の三高(現在の京都大学)に在学中だった忠が来ていたことからでした。(「おいでませ山口へ」作家・宇野千代とは?)
※自伝的エッセイ『生きていく私』では、「藤村悟」という名前で表記されています
再会から親しくなり同棲へ再会当時、京都の第三高等学校に通っていた忠は、夏休みで帰郷中でした。それがきっかけで、千夜は、弟妹を連れて伯母の家に遊びに行ったりするうちに懇意になりました。
そして、京都・知恩院の塔頭の小部屋で忠と同棲が始めたのでした。
このときの二年足らずの京都の生活は、私の生涯の間に、二度とはないくらいの呑気な生活であった。『生きていく私』
19歳と19歳半というまだ若い二人の生活。狭い部屋で身を寄せ合う貧しい日々でも、仲良く暮らした様子が想像できるようです。
1917年(大正6年)、忠は三高を卒業し、東京帝国大学(今の東大)法科大学入学に合わせて二人は東京へ住まいを移し、上京しました。
京都から東京へ
上京したものの、忠は家からの送金がままならなくなったため、大学に籍を置きつつも役所の雇員として働きました。
千代は雑誌社の事務員や中国人留学生向けの日本語教師、写真のモデルなどで働いたり、本郷の高級西洋料理店『燕楽軒』の給仕のアルバイトをしました。
ここではわずか18日間という短い勤務だったものの、のちに千代が文壇へといく足がかりを作ることとなる、『中央公論』編集長の滝田樗陰(たきた ちょいん/滝田哲太郎)との出会いがあったのです。
また、今東光・芥川龍之介・久米正雄・今日出海・佐藤春夫ら文士たちとの出会いもありました。
大正8年(1919)、千代と忠は入籍します。
忠は東京帝国大学法科大学を無事卒業、北海道拓殖銀行に就職したことをきっかけに、二人は札幌に移住したのでした。
千代は、得意だった裁縫の腕をいかして、仕立物を請け負ったり、頼母子講(※)に精を出したりして生活を支えていました。
※無人講とも呼ばれた民間の組織。構成員が一定のお金を出し合い、入札などで順番を決めて取り合い、全員に巡るまで行う仕組み。
東京帝国大学法文科大学本館(1900年)wiki public domain
尾崎士郎と運命的に出会い忠と離婚翌年、1921年(大正10年)、『時事新報』の懸賞短編小説に自身の経験をもとに書いた『脂粉の顔』が一等当選し、千代は本格的に作家デビュー。賞金は200円をもらいます。
さら執筆活動に専念し『墓を發(あば)く』の原稿を、「燕楽軒」の常連客だった瀧田樗陰に送ります。
けれども返事がなかったため、1922年(大正11年)4月、単身上京して瀧田に確認したところ、すでに『中央公論』5月号に掲載されていたことを知りました。
中央公論社から原稿料366円(現代に換算するとおよそ170万~200万円)を受け取り、岩国の実家に一度帰ったそうです。
そして岩国から北海道に戻る途中、千代は次の仕事の打ち合わせを兼ねて、東京の中央公論社に寄りました。
これが、千代と夫・忠の仲を引き裂いてしまうことになったとは……。
そこで、尾崎士郎と運命的な出会いがあったのです。
激情のような切実な想いにかられ、千代は士郎の宿泊先に皆とともに訪れそのまま夫・忠のもとには戻らなかったとか。(自伝では「帰らなかった」となっているも、実際は忠が上京し、千代と士郎と三人で話し合ったとも言われています)
大正13年(1924)4月、忠との協議離婚が成立し史郎と3度目の結婚。筆名を「宇野千代」と変え、作家として注目を浴びる存在へとなっていくのでした。
尾崎士郎と結婚していた時期(1926年 – 1930年)に撮られた宇野千代。 右は尾崎士郎。wiki
保との再会と二度目の結婚はドラマでは、婚家から逃げて行く珠の姿を見て、その決断力や行動力を好ましく思った様子の保。
そんな珠を大切しそうな誠実で優しそうな保。
妻の帰宅を待っていたのに、東京で新しい電撃的な恋をした珠に別れを告げられてしまうのかと想像すると胸が痛みます。
珠の再会と二度目の結婚と離婚は、どのように描かれていくのでしょう。
朝ドラ「ブラッサム」や、葉野珠のモデル・宇野千代に関しては、下記記事もぜひご覧ください!
14歳で初婚、結婚4回…朝ドラ『ブラッサム』石橋静河が演じるヒロインモデル・宇野千代の激動の生涯 『ブラッサム』強烈モラハラの父(渡部篤郎)と優しい継母(国仲涼子)…史実もドラマ越えの壮絶さだった!?参考:
・『生きて行く私』宇野千代 角川文庫
・鳥取県「晩婚化の今昔」
・宇野千代さんのホームページ
・NPO宇野千代生家
・おいでませ山口「作家・宇野千代とは?」
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