【豊臣兄弟!】茶々、側室入りの引き金に…信長の実子で秀吉の養子・羽柴秀勝の短い生涯
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第39回『茶々の本心』。
いよいよ関白となり「豊臣」を名乗るようになった秀吉(池松壮亮)の「跡取り」問題がクローズアップされました。
第39回の放送内容の考察はこちらの記事で紹介しています。合わせてご覧ください。
【豊臣兄弟!】茶々が夫の子を産むなど嫌!寧々(浜辺美波)の本心と胸が張り裂けそうな苦しみを考察 【豊臣兄弟!】寧々一筋のはずが実は側室200人超!石川数正はなぜ出奔?ほか…第39回の史実を一挙紹介「羽柴と織田と浅井の血が一つとなるのじゃ。」という、秀長(仲野太賀)の言葉に、そういえば、「信長の血を直接引いている養子の息子の出番は?」と思った人もいるでしょう。
織田信長(小栗旬)の四男(ドラマ内では五男)で、秀吉の養子となっていた羽柴秀勝(於次秀勝/柊木陽太)のことです。(※この記事内は「秀勝」で統一)
第26回『信長を笑わせろ!』では、まだ面差しには幼さも残っているものの、成長した姿を見せていた羽柴秀勝。
本能寺の変後、お市(宮﨑あおい)が妙心寺で信長の葬儀を行ったことに対抗し、秀吉が大覚寺で行なった大規模な葬儀(天正10年10月)では、立派に喪主を務めている姿を見かけました。
ドラマ内ではここまで存在は確認できたのですが……。
今回、突然、秀勝は病に臥せっている姿で再登場しました。医者の見立てでは「年は越せないかもしれない」という重篤な状態。
「もう駄目かもしれません」と苦しげに呟く秀勝を、寧々(北政所/浜辺美波)が「あなたは織田信長の血を引いているから強い」と、励ましつつ看病している姿がありました。
秀吉の後継者にならぬまま、歴史からもドラマからも姿を消した秀勝とは、どのような人物だったのでしょうか。
実父・織田信長に挨拶をする羽柴秀勝。(NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより)
実父・信長に初陣の挨拶をした羽柴秀勝第26回『信長を笑わせろ!』では、さまざまな出来事が続き元気のない信長を「次の備中攻めで初陣を果たす秀勝に会って、励ましてください」という名目で、秀吉は長浜城に誘いました。
挨拶をする秀勝に「立派な初陣を果たすよう」と声をかける信長。
しっかりと挨拶をする秀勝の後ろ姿を頼もしそうに嬉しそうに見守る秀吉でしたが。(ドラマ内では、信長を笑わせようとする『羽柴まつり』で、おどけて踊ったり藤堂高虎(佳久創)に担ぎ上げられていたり、養父母にも家臣からも可愛がられている様子が描かれていました。)
この頃は、およそ天正9年(1781)。
史実では、その4年後、天正13年12月、秀勝は18歳という若さで病死しています。
今回のドラマではちょうどその天正13年。この秀勝の死は、ずっと豊臣家の将来を心配していた寧々の決断にも影響したのでしょう。
秀勝を励ましながら優しく看病する寧々(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
二人目の羽柴秀勝となる於次丸秀勝「秀勝」を名乗る息子は養子を含めて3人いることでも知られています。
ほかの秀勝と区別するため「於次丸秀勝(または於次秀勝)」と呼ぶことが多いようです。
秀勝は、永禄11年(1568)、織田信長の子として生まれました。
ちょうど、9月26日に信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した頃。
秀勝は、信長の四男・五男の両方の説があり、生母は信長の側室・養観院とされています。
秀吉は、長浜城主時代、初めての男児となる・石松丸(石松丸秀勝/または石松秀勝)を側室との間に設けたものの、天正しい4年(1576)に死去しています。
その時の年齢は15歳以上と推測されていますが、実子であったか養子であったかは不明だそう。
※秀吉にいたとされる実子に関しては、こちらの記事で紹介しています。
天下人・豊臣秀吉にいたとされる4人の実子は本当なのか?現代まで残る風説を紹介【前編】その後、秀吉は二人目の羽柴秀勝となる於次丸秀勝を、信長から貰い受けたのでした。
時期は天正5〜6年(1577〜78年)頃と推定され、遅くとも天正8年(1580年)までには成立していたとされています。
秀吉が於次丸と連名で8年に出した長浜八幡宮の奉加帳が残っています。(下の写真参照)
左側に『羽柴秀勝』に関することが。 渡辺世祐 著『豊太閤と其家族』,日本学術普及会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/953289
長浜八幡宮奉納帳 渡辺世祐 著『豊太閤と其家族』,日本学術普及会,大正8. 国立国会図書館デジタルコレクション
血縁の絆で主君と家来の絆を深める信長の息子・於次丸が秀吉の養子になった経緯や理由としては、以下のような説が挙げられています。
⚫︎有能で勢いのある家臣・秀吉に実子を与えることで、血縁の絆で忠誠を固め、織田家との結びつきを強化する狙い。
(信長は血族を優遇する傾向があり、有力家臣の家に自分の子を入れることで、地位擁護や家臣統制にも役立てた。)
⚫︎秀吉も、出自の低い自分の家に信長の血を引く跡継ぎを迎えることで立場を安定させることができた。
⚫︎秀吉の正室・寧々が実子に恵まれないことを信長に懇願、主筋の子を迎えることで家中の安泰を図った。
いずれにしても、個人的な「信頼」だけではなく、戦国時代には珍しくない主従関係を血縁で補強する政略的な養子縁組だった推測されています。
養父・秀吉のそばで着実に戦果をあげるも羽柴秀勝は、実戦で大きな手柄を立てて目立ったわけではないのですが、父・秀吉のそばで主な合戦に参加しています。
天正10年(1582)には秀吉に従い、中国攻めに参戦。けれども6月に本能寺の変が勃発するとともに、秀吉の「中国大返し」に同行、共に引き返しました。
そして、山崎の戦い(6月13日)に参加。異母兄・織田信孝とともに「信長の実子」として弔い合戦の旗印(象徴)の役割を果たしたといえるでしょう。
清須会議後の遺領配分では、明智光秀の旧領・丹波国を与えられ、丹波亀山城主に就任。
大徳寺で行われた信長の葬儀では喪主を務め、秀吉が「信長の後継者」であることを内外に印象づけました。
さらに、賤ヶ岳の戦い(天正11〜12年/1583〜84年)に参加。秀吉方として帯同。
小牧・長久手の戦い(1584年)にも出陣。近江草津に陣を張り、木曽川筋の攻撃などで活躍。伊勢松ヶ島城攻略では秀長とともに別働隊を率いた記録もあるといわれています。
ドラマでの「小牧・長久手の戦い」では、秀吉の甥・三好信吉(豊臣秀次/山田涼介)の王道プリンスなビジュアルと「負けたのは私のせいですかね?」な他責思考の態度が注目され、秀勝の戦いぶりは目立ちませんでした。
【豊臣兄弟!】山田涼介が演じる他責思考のZ世代武将・秀次の悪評は罠?史実が語る“悲劇の名君”との落差史実では、『兼見卿記』によると、「小牧・長久手の戦い」秀勝は出陣はしたものの途中で体調が悪くなり、大垣城に留め置かれたり、丹波に帰国したりしています。
婚礼、鷹狩りの後に容体は悪化
天正12年(1584)12月26日、秀勝は毛利輝元の養女と婚礼を挙げ、一時回復して鷹狩りに出かけた記録もあるそう。
けれども、その後再び病床に就き、天正13年(1585)年7月に従三位・左近衛権少将、正三位・権中納言に叙任されたものの直後に容態が悪化し、12月に丹波亀山城で死去しました。
病状は一進一退を繰り返していたようですが、具体的な病名などの記録はないようです。
織田信長の血を濃くひいた人物として、将来を嘱望された羽柴秀勝。これからというときに病で若くして人生を終えてしまいました。
秀勝の死は、「信長の名である茶々を別妻として娶る」という、豊臣の後継問題だけではなく、秀吉はもちろんのこと、茶々や寧々の人生にも大きな影響を与えた人物だったのです。
今後の「豊臣兄弟!」の展開に関して、下記記事で紹介しています。ぜひご覧ください。
【豊臣兄弟!】あさひ(倉沢杏菜)が家康と強制結婚!悲劇的な末路の真相、引き裂かれた夫婦の絆… 『豊臣兄弟!』なぜ石川数正(迫田孝也)は徳川家康を裏切ったのか? 史実とドラマ描写から見える出奔の理由参考:
・『豊太閤と其家族』渡辺世祐
・「総論 羽柴秀吉一門の研究」『羽柴秀吉一門』黒田基樹
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