「聖徳太子」は誰が作った?手柄の完全な横取り…奪われた「蘇我馬子」の功績と歴史の闇

Japaaan

「聖徳太子」は誰が作った?手柄の完全な横取り…奪われた「蘇我馬子」の功績と歴史の闇

唐への警戒

古代日本において天武天皇が死去し、持統天皇(じとうてんのう)が即位したのは690年でした。このころの倭国は、唐からの侵攻を強く警戒する時代に入っていきます。

唐は当時の東アジアで圧倒的な力を持つ大国でした。倭国にとっては、どうすれば独立した国として存在できるのかが重大な問題だったでしょう。

こうした状況は、推古天皇(すいこてんのう)と蘇我馬子(そがのうまこ)の時代にも見られます。隋からの侵攻を警戒しながら、倭国を整った国家として見せる必要があったわけです。

 

藤原不比等(Wikipediaより)

持統天皇と藤原不比等(ふじわらのふひと)の時代にも、同じような課題が残っていました。外国から見ても国家として認められる仕組みを整えることが求められたのです。

ただし、国家づくりには国内向けの目的もありました。天武・持統につながる皇族の系譜を正統なものとして示し、その立場を長く保つ必要もあったと考えられます。

藤原不比等にとっては、もう一つの意味もありました。新興勢力だった藤原氏の立場を高めていく必要があったのです。

そこで、かつて大きな政治権力を持っていた蘇我氏のやり方は、大きなお手本になったことでしょう。

こうした政治的な事情の中で作られたのが『古事記』や『日本書紀』です。

その制作に、藤原不比等が知恵を出したのではないかという説もあります。

馬子の功績

ここで問題になるのが蘇我馬子でした。冠位十二階や憲法十七条の制定など、馬子に結びつく政治上の業績はかなり大きなものだったのです。

これらをすべて馬子の功績として記録すれば、後から勢力を伸ばした藤原氏の存在が目立ちにくくなります。そこで、蘇我馬子の業績を別の人物へ移したのではないかという説があります。

その「別の人物」の候補として注目されたのが厩戸王(うまやとおう)(=聖徳太子)だったというわけです。

聖徳太子に関する話題は下記記事でも取り上げています。ぜひご覧ください。

日本史上屈指の偉人・聖徳太子の実績を全否定!『日本書紀』によって歪められた人物像【前編】

あの史実も予言していた!歴史上もっとも謎だらけの男「聖徳太子」が残した予言とは?

厩戸王の父は用明天皇で、推古天皇とは同母兄弟という関係にあります。さらに都合が良かったのは、厩戸王には後世に異論を唱える血族が残っていない点です。

土佐光芳『推古天皇像』(Wikipediaより)

山背大兄王の時代、皇位継承をめぐる争いから蘇我入鹿によって一族全員が殺害されたためです。反論する血族がいなければ、伝承の内容を確かめることも困難です。

『日本書紀』の完成は720年、行信による法隆寺夢殿の完成は739年であり、厩戸王の死後には長い時間が経過していたため、後世に新しい人物像を付け加えやすい条件があったとも考えられます。

こうして厩戸王は、後に聖徳太子と呼ばれる人物としてイメージが作られていったのだと考えられます。

ただし、こうしたイメージ作りに、藤原不比等が実際にどこまで関与したのかを直接示す史料はありません。

「摂政」の矛盾

もう一つ気になるのが、聖徳太子の政治的な立場です。当時の大王は推古天皇で、大臣として政治の中心にいたのが蘇我馬子でした。

馬子は働き盛りの壮年で、実際の政治を担っていたと考えられます。一方、厩戸王には当時、政治参加を保証する官職がありませんでした。

ところが後世の伝承では、厩戸王に天皇の政務を代行する、ご存じ「摂政」という立場が与えられていたことになっています。

しかし、この摂政という名称の官職が中国から日本へ伝わったのは、推古天皇の時代より後とされています。矛盾していますね。

こうなると、後の時代に存在した制度を、無理やり厩戸王の時代へ当てはめた可能性も出てきます。

そんなこともあって、現在の日本史研究では、現在知られる聖徳太子の人物像の多くは後世に形成されたものであり、その太子像をそのまま史実とすることには慎重な見方が強いです。

では、遣隋使や十七条憲法の制定、冠位十二階など、聖徳太子が成し遂げたものとして現代に伝わっている政治的成果を、実際に成し遂げた人物は誰だったのでしょうか。

そこで改めて注目されるのが蘇我馬子です。

蘇我馬子の墓といわれている石舞台古墳

蘇我馬子に辱めを与えるため!?なぜ明日香村の「石舞台古墳」には土が盛られていないのか?

当時の倭国は、中国へ朝貢して被冊封国となることを避けながら、一定の独立性を持つ国として認められる道を進んだと考えられています。

その国家としての基盤づくりに大きく関わった人物として、現代では蘇我馬子が評価されているのです。

聖徳太子が実在したかどうかだけを考えていては、古代史の面白さは見えてきません。

誰の功績が、なぜ別の人物のものとして語られるようになったのかを考えることで、古代国家が自分たちの歴史をどのように形づくったのかも見えてくるでしょう。

古代日本に関する話題は、こちらの記事もオススメです。ぜひご覧ください。

ヤマト政権の巨大古墳、実は「外交兵器」だった!?世界に誇るスケールで仕掛けた“威信演出”とは?

オリオン座が古代日本・ヤマト政権を作った!?博多から大阪へ繋がる「三つ星信仰」の足跡

「天皇の母」を出し続けた蘇我一族は、なぜ古代王朝で「別格」になれたのか?

参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia,PhotoAC

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「「聖徳太子」は誰が作った?手柄の完全な横取り…奪われた「蘇我馬子」の功績と歴史の闇」のページです。デイリーニュースオンラインは、厩戸王、藤原不比等、古代日本、蘇我馬子、聖徳太子、カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る