「卑弥呼」は偉大な女王だった!「三国志」の動乱を読み大国・魏から“破格の待遇”を勝ち取った知略
歴史はいうまでもなく、人がつくるものです。
しかし、日本の古代史、特に弥生時代を振り返ると、「帥升(すいしょう)」と「卑弥呼(ひみこ)」くらいしか見当たりません。
帥升は『後漢書』に登場する倭国王で、西暦107年に後漢に朝貢したと記されます。
そして最も有名なのが、邪馬台国の女王・卑弥呼です。
※卑弥呼に関しては、こちらの記事でも詳しく紹介しています。ぜひ合わせてご覧ください。
卑弥呼の墓はここか?箸墓古墳を検証――倭国を創出した卑弥呼・台与・崇神天皇の古墳【前編】 卑弥呼のモデルとされる「倭迹迹日百襲姫」とはいったい誰?正体を日本書紀の記述から推測【前編】彼女も中国の歴史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に登場しますが、そのイメージはというと、神がかりな巫女(シャーマン)であり、宮殿の奥で侍女に囲まれて暮らし、ほとんどその姿を現さない神秘的な存在というところではないでしょうか。
また、実際の政治や外交の実務は、弟が行っていたとされています。つまり、彼女はお飾り的な存在で、政治力はほとんどなかったということです。
ところが近年の研究では、そのような卑弥呼像をがらりと変えるような説が唱えられるようになりました。
今回は、中国三国時代の魏・呉・蜀の情勢と卑弥呼の関わりに注目し、その実像を考察します。
邪馬台国との密接な関係構築に動いた魏
卑弥呼が活躍した時代は、2世紀末から3世紀前半にかけて後漢が衰退し、やがて魏・呉・蜀の三国が並び立ち、互いに覇を競う時代を迎えた、いわゆる三国時代でした。
『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』によると、卑弥呼が死去したのは西暦247年〜248年、そして歴史学的な推計に基づくと、彼女が生まれたのは170年頃と推測されます。
そうです、日本でも人気の高い、曹操(魏)、孫権(呉)、劉備(蜀)が登場する『三国志』の舞台、その時代の真っただ中に、卑弥呼は生きていたのです。
ですから、卑弥呼の実像を探ろうとすれば、魏・呉・蜀の状況を鑑みる必要があるのです。
三国のうち最初に亡くなったのは、魏の曹操で220年に死去します。しかし、孫権と劉備はなお健在でした。
実はですね、この220年という年は日本においては倭国大乱を経て邪馬台国が成立し、倭国連合の中心として存在していた時期とほぼ重なるのです。
そして、倭国を統べていた邪馬台国と密接な関係を築こうと積極的に動いたのが魏でした。
魏というと、三国のなかで最大の国力を誇った国とされますが、実はそんなに安穏としている状況ではなかったのです。
たとえば、208年に起きた赤壁の戦い。曹操が圧倒的な大軍を率いながらも、劉備と孫権の連合軍に大敗を喫した戦いです。
この戦いの後、曹操の勢力は孫権や劉備と対峙しながら、遼東や朝鮮半島方面の情勢にも対応しなければならない立場に変わっていきました。
曹操は臨終に際し、「天下は未だ収まっていないから古例に従う必要はない。私の埋葬が終わったならすぐに喪を明けよ。各地の軍隊は持ち場を離れてはいけない。官吏はその職務に努めよ。埋葬に当たっては平服を用い、金銀珍宝を副葬してはならない」と言い残しました。
それほど、自分の没後の魏に危機感を抱いていたのでしょう。曹操の死後、その子・曹丕(そうひ)が魏王の位を継ぎ、やがて後漢から禅譲を受けて皇帝となります。
しかし曹丕は、呉・蜀との戦いで決定的な優位を築けぬまま、在位わずか6年で死去してしまいました。
そして、その後を託されたのが、子の曹叡(そうえい)と、曹操の代から重用されてきた司馬懿(しばい)でした。
実はこの司馬懿こそ、卑弥呼へ「親魏倭王」の称号を授ける魏の外交判断に、深く関わった人物である可能性が高いと考えられるのです。
魏・呉・公孫氏が絡んだ、遼東・朝鮮半島の政治情勢237年、遼東半島に独立政権を築いていた公孫氏の4代目・公孫淵が魏に背きます。これを受けて、翌238年、司馬懿は曹叡の命を受けて公孫淵を攻撃しました。
『三国志』の「魏志東夷伝」には、「倭や韓が帯方郡に従っていた」ことが記されていますが、この帯方郡とは、公孫氏政権が設けたものです。
また、遼東半島は、朝鮮半島と中国大陸の中間にある軍事・外交の要衝であり、古代から近代に至るまで、極めて重要な地域でした。
それゆえに魏と呉が、遼東半島を押さえる公孫氏政権を味方に引き入れようとするのは、至極当然なことであったのです。
232年、公孫淵は魏ではなく、呉の孫権に従う姿勢を見せます。孫権は強力な水軍を背景に、海上から魏の背後を脅かす戦略をたて、そのために公孫淵を味方に引き入れようと動いたのです。
当然のことながら、この呉の動向に魏は警戒を強めます。そして、公孫淵に圧力をかけ、呉から使者が来たら殺すよう命じ、公孫淵はこれに従い呉の使者を殺害しました。
こうして魏に従う意思を示した公孫淵でしたが、それでも魏は公孫氏政権への圧力をやめません。
そして234年、『三国志』を彩った偉大な英雄がこの世を去ります。劉備の死後、蜀を支え魏と対峙してきた諸葛亮が病に倒れ、陣中に没したのです。
これを機に、魏は本格的に呉の影響力を遼東半島、朝鮮半島から駆逐しはじめます。そして、238年、ついに魏は4万の大軍を動かし、公孫淵を滅ぼしました。
公孫氏政権の滅亡により、呉と公孫淵による海上から魏を挟撃する可能性は大きく後退しました。そして魏は倭(邪馬台国)を味方に引き入れ、逆に呉の背後を牽制する構図を描いたのです。
卓越した国際感覚と外交戦略を備えた卑弥呼魏は呉を統制するために、倭を重要視しました。しかし、倭にとっても魏の後ろ盾は必要であったのです。
当時の邪馬台国の状況をみると、倭国連合の中心ではあったものの、決して安泰ではありませんでした。それは、南方の狗奴国との争いが続いていたからです。
それゆえに、魏という大国の後ろ盾を得ることは、倭国内での優位を確立するうえで極めて有効でした。つまり、魏の威光で狗奴国との争いを平定しようとしたのです。
そして、ここでの卑弥呼の動向が、従来の彼女の実像を覆すことになります。それは卑弥呼が、魏に対して邪馬台国を安売りせず、魏と呉の対立関係を巧みに利用する外交手段を取っていたと考えられるのです。
魏を海上から牽制するために、遼東半島へ使者を送った呉の孫権は、さらに東方の海上世界にも関心を向けていたことは想像に難くありません。
考古学的にも、兵庫県の安倉高塚古墳などから出土した呉系の鏡を、その手がかりとみる説があります。つまり魏と呉の対立は、邪馬台国をめぐる外交にも大きな影を落としていた可能性があるのです。
卑弥呼は、このような複雑な国際情勢を読み切ったうえで、魏に使者を送り、倭国の立場を大きく引き上げました。
そしてこの選択は、魏にとっても邪馬台国にとっても大きな意味を持つ外交判断となります。239年、卑弥呼の使者は魏の都・洛陽を訪れました。このとき魏は卑弥呼に「親魏倭王」の称号と金印、多くの下賜品を与えたのです。
実は、この「親魏~王」という称号こそ、卑弥呼にとっては大きな意味がありました。魏からこの称号を得たのは、クシャーナ朝のヴァースデーヴァ王と、邪馬台国の卑弥呼だけであったとされるからです。
「親魏倭王」の称号は、単なる朝貢関係ではありません。それは魏にとって倭が戦略的に重要な存在であったことを示しているのです。
いかがでしたか。卑弥呼は、魏と呉という二大国の力関係を冷静に見極め、邪馬台国の存在を外交上の切り札として生かすことで、中国の大国から破格ともいえる待遇を引き出したのです。
このように考えると、卑弥呼は政治的権力を持たないお飾りではなく、卓越した国際感覚と外交戦略を備えた真の女王だったといえるのではないでしょうか。
※卑弥呼に関しては、こちらの記事でも詳しく紹介しています。ぜひ合わせてご覧ください。
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NHKスペシャル取材班著 『新・古代史』NHK出版新書
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