『豊臣兄弟!』を支えた武将・多賀常則とは?浅井・信長・秀吉・秀長と主家を変え生き抜いた乱世の実力者
尾張の貧しい百姓の出自から、ついに天下人へと駆け上がった豊臣秀吉・秀長の「豊臣兄弟!」。
その大出世は、二人の才覚のみならず、死線を共に潜り抜けた「現場叩き上げの猛者たち」の働きがあってこそ成し遂げられたものでした。
今回スポットを当てる多賀常則(たが つねのり)も、まさにそんな一人。
浅井長政、織田信長、羽柴秀吉、そして秀長――。次々と主君を変えながらも、なぜ彼はどの主からも重用され、最前線で武功を挙げ続けることができたのか。
織田家中屈指の猛将たちと肩を並べ、やがて豊臣兄弟の天下取りに身を投じた男の、知られざる激闘の足跡に迫ります。
浅井から織田家臣に
多賀常則は生年不詳、その出自についてもよくわかっていません。
元服して新左衛門尉(しんざえもんのじょう)と名乗り、はじめは北近江の浅井長政に仕えていたと言います。
後に織田信長へ鞍替えし、元亀元年(1570年)時点には織田家臣として、近江国穴太(滋賀県大津市)の地で浅井・朝倉連合軍と対峙しました。
その後も天正元年(1573年)の朝倉攻め(一乗谷合戦)、天正9年(1581年)の伊賀攻め(天正伊賀の乱)、そして天正10年(1582年)の武田攻め(甲州征伐)などで武功を上げています。
武田勝頼を攻め滅ぼした天正10年(1582年)4月、常則や丹羽長秀・堀秀政らは信長から上野国草津温泉(群馬県草津町)での湯治を許可されました。
その約2ヶ月後に京都で本能寺の変(6月2日)が起こり、信長らが横死を遂げます。
この時点で常則がどこで何をしていたかはよくわかっていません。一緒に湯治をしていた丹羽長秀は既に四国遠征の準備をしており、堀秀政は秀吉の軍監として中国戦線にいたため、さすがに常則だけずっと湯治をしていたということはないでしょう。
九州征伐で陣没?
ともあれ常則は、信長死後に羽柴秀吉の家臣となりました。
天正12年(1584年)に秀吉が織田信雄・徳川家康と干戈を交えた小牧・長久手の戦いでは兵300を率いて従軍しています。
後に秀吉の命で羽柴秀長の家臣となり、大和国に知行2千石を賜りました。
また伊予守(いよのかみ)を称したものの、これは朝廷からの正式な叙任か、あるいは官途名(主君から許された私称)かはわかりません。
天正15年(1587年)の九州征伐では秀長家臣として従軍しますが、病のため同年4月20日に陣没しました。
ちなみに没年については異説もあり、天正17年(1589年)に亡くなったとも、慶長2年12月23日(1598年1月30日)に世を去ったとも言われているそうです。
戒名は洞悦(どうえつ)、その家督は嫡男の多賀常直(つねなお)が受け継いだのでした。
多賀常則・人物データ 生没:生年不詳~天正15年(1587年)4月20日没? 出身:近江国か 主君:浅井長政→織田信長→羽柴秀吉→羽柴秀長 戦歴:浅井・朝倉攻め、伊賀攻め、武田攻め、小牧・長久手の戦い、九州征伐など 知行:大和国2千石(秀長家臣) 通称:新左衛門尉 官位:伊予守 戒名:洞悦 子女:多賀常直 終わりに今回は秀長家臣として活躍した多賀常則の生涯をたどってきました。
秀長に仕えていたのは晩年の3年間ほどに限られましたが、どのような主従関係を築いていたのでしょうか。
他にもたくさんいる豊臣家臣たちを、これからも紹介していきたいと思います。どうぞおつき合いください。
「豊臣兄弟!」では描かれない魅力的な人物に関して、下記記事でも紹介していますので、合わせてご覧ください。
『豊臣兄弟!』の裏で大出世!牢人から「2万5千石の城主」へ化けた秀長家臣・本多利久の生き様 【豊臣兄弟!】軍師・黒田官兵衛には弟が!キリシタン武将・黒田直之、秀長に仕えた猛将の生涯 戦国武将・多賀常則(たがつねのり)※参考文献:
岡田正人 編『織田信長総合事典』雄山閣、1999年9月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

