藤波辰爾が初めて語った!「わが憧れのジャイアント馬場」 (2/3ページ)

日刊大衆

当時、馬場さんと猪木さんは、だいたい同じ控室でした。試合が始まると、馬場さんも猪木さんも控室からいなくなる瞬間があるんです。そんなとき、馬場さんと猪木さんが入場の際に着るガウンに、二人でこっそり袖を通したりしてね。そうそう、馬場さんのインター(NWAインターナショナルヘビー級王座)と、猪木さんのUN(ヘビー級王座)のベルトを、それぞれ交換して巻いたこともありました(笑)。あの頃、今と違ってベルトは本当に特別はばかで触ることすら憚られるものでしたから、腰に巻けただけで有頂天でしたね」

アントニオ猪木の付け人だった藤波さんが、馬場と親しく会話をするような機会はほとんどなかった。それだけに、いくつかのシーンが今も鮮明に残っている。

「一度だけ、旅館の風呂場で馬場さんの背中を流させてもらったことがあるんです。当時、馬場さんと猪木さんはBI砲として組むことが多く、同じ頃に旅館に到着する。それで一緒に風呂に入って、僕が猪木さん、佐藤さんが馬場さんの背中を流すんです。あるとき、馬場さんの背中を流していた佐藤さんが茶目っ気を出してね。代わろうと言うから代わったら、もう背中が麻雀卓(笑)。とにかくデカくて、背伸びして背中を流したことはよく覚えています。途中で入れ替わったことを馬場さんはわかっていたのかなあ……。トップスターだった馬場さんと若手が一緒に練習をすることはなかったんですけど、ある夕方、代官山の日本プロレスの合宿所に、たまたま馬場さんが顔を出した。そのまま練習場のリングに上がると、僕に向かって"おい、ちょっと上がれ"。緊張と喜びで固まりましたね。それでヘッドロックをかけられたんですが、文字どおり一歩も動けない。あの"痛いうれしさ"は今でも忘れられませんよ(笑)」
何かあったら連絡してこいよ

1971年、日本プロレスに激震が走る。団体内の不透明な経理をただそうとした馬場や猪木ら選手会の動きに端を発し、結果として猪木が追放される。翌72年、猪木は新日本プロレスを旗揚げし、藤波さんも同団体に参加する。

「もともと馬場さんと猪木さんは仲が良かったんです。ところが、猪木さんの、馬場さんへのライバル心というかね……。気づくと、猪木さんは馬場さんと風呂に一緒に入ることも避けるようになっていた。

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