太宰治の生き方から学ぶ「断捨離と生前整理」の違い
断捨離というものがあるが、生前これに従い物を捨てていったら生前整理ができるだろうか。先日テレビで『知日』という雑誌が紹介されているのを見た。これは中国で発行されているもので、日本文化を紹介する内容らしい。これは中国で発行されているもので、日本文化を紹介する内容らしい。そのひとつに断捨離を紹介するものがあった。
■生きていく上での知恵 断捨離
『知日』の表紙に“断捨離”の文字が載っていたのだ。残されるものとしては何もかも捨てて欲しいような欲しくないような…捨てられる物の中に私がプレゼントした物が含まれていたら少し悲しい。もし捨てるなら私に見えないように処分して欲しい。
一方で、安心もする。私があげた物も捨てるようなら本当に何もこの世に未練がない、執着もない状態で逝く準備をしているのだと考えられるからだ(断捨離によって生前整理されると複雑だ。断捨離は生きる上で行うものなのかも知れない)。
■中国で注目を集めている太宰治
『知日』を紹介していたテレビ番組では、中国では今、若者の間で太宰治が注目を集めていると報じられていた。
それを中国で紹介するために、中国から津軽に取材がきたのだ(津軽は太宰の故郷である)。番組中、中国からの取材班は小泊を訪れる。小泊は太宰が晩年(亡くなる4年前)に訪れた場所である。太宰はこの地へ、かつての乳母(越野タケという人物らしい)に会いに来たそうである。太宰にはたくさんの兄弟がおり、両親も揃っていたが、その中で太宰が最も慕っていたのが乳母のタケである。このときのことを記した太宰の作品が、確か『津軽』という短編として存在するはずだ。
■太宰治が断捨離を実践していたら…
ここで考えてしまったのだが、もし太宰が断捨離を実践するか、もしくはそのような考え方をもっていたら。執着とともに原稿もタケへの思慕も捨て去っていたら。きっとメロスが友のために走ることはなかっただろう。そもそも太宰治という作家自体が生まれなかったはずである。本人が処理しきれない煩悶や懊悩があってこその太宰治の作品だと思う。
太宰の場合、文学作品という形になったが、後世の人間が生きる役にたつものなら遺しておいて欲しいと思う。“生きるうえで断捨離もせず、後世のために何か遺そうというつもりもなく、自身の遺物を自室に置いたまま逝ってしまった、その遺物が本人の死後、評価され、本人に代わり後世の人々が保存してくれる”もしかしたらそれがもっとも理想的であると感じる人もいるかも知れない。
だがそれは本人が生きることに人一倍真剣だった、自身の存在意義について人一倍真剣に考えていたことが感じられたから評価されるのだと思う。人生に対する真剣味が他人にも感じられるのなら捨てずに遺しておいても迷惑がられないのではないだろうか。そうして遺した物ならば後世の人々を生かすのではないだろうか。
■断捨離と生前整理は生きているか亡くなっているかの違い
断捨離は生きる上で行うものなのかもしれないと先述したが、後世の人々を生かす、役立つ物と遺品整理で捨てられる無駄な遺物とを分けるのが断捨離であり生前整理なのかもしれない。生きる上での断捨離=死に際しての断捨離(生前整理)なのかもしれない。生きるためにも死ぬためにも断捨離は齧っておくくらいはしたほうがよい気がしてきた。
そこでまた考えてしまった。太宰は自然と断捨離ができていたのかもしれない。よく考えたら、それができなければ自身の人生の課題や疑問、コンプレックスを作品として書き遺そうとも思わないだろう。太宰は自身の処理しきれないものを、作品というカテゴリーを作り、そこにひとまとめにしておいたのだと思う。自身の作品が後の世に多大な影響を及ぼすことまでは考えていなかったかも知れないし、生前整理のつもりもあまりなかったかも知れない。しかしそのつもりがなかったとしても太宰は生前整理ができていたとはいえないだろうか。
■捨てることが出来ないなら無理に捨てる必要はない
完璧な生前整理を目指さずに、生前に処理できない物ならできない物できちんとまとめておくのが良いのかも知れない。
あとは遺された者がその中から必要なものを選び、生きるために役立ててくれるだろう。
それは一種の世代間のバトンタッチなのかも知れない。そしてそのバトンを作る作業が生前整理なのかもしれない。