すごすぎる! 漫画の神様・手塚治虫の仰天エピソード5選

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手塚治虫先生は「漫画の神様」といわれます。生涯に約15万枚の漫画原稿、作品のタイトル数では700余りを描いたそうです。手塚先生はこの数字が示すとおり、とにかく猛烈に仕事をした人でした。今回は、手塚先生のエピソードをご紹介します。

●原稿を取るために編集者は必死!

手塚先生は売れっ子漫画家であったため、常に複数の仕事を抱え締め切りに追われていました。「手塚番」といわれる各漫画雑誌の手塚先生担当は、原稿を取るのに必死でした。編集者からは、なかなか原稿が上がらないため「手塚遅虫」、また締め切りどおりに原稿が上がらないことから「手塚うそ虫」といった呼び方をされていたそうです。

●九州まで逃げたことがある!

締め切りが迫ってくると手塚先生が逃げてしまうこともありました。最初は東京都内の旅館に逃げたりしていたのですが、編集者が手塚先生の行方を追って電話をかけまくるものですから、そのうち手塚先生は「あなたを泊めたら電話がやたらかかってくるから」と泊めてもらえなくなったそうです。

そのため手塚先生は京都、さらに(大阪経由で)九州まで逃げたことがあります。もちろんそこにも編集者が追いかけてきたのですが。九州では若き日の松本零士先生、高井研一郎先生が原稿を手伝ったそうです。手塚先生に頼まれたら断れませんよね。

●阿蘇山で死にかけ遺書を用意した!

手塚先生は阿蘇山で死にかけたことがあります。『火の鳥』の連載に当たり、どうしても阿蘇山を見ておきたかったそうです。しかし、季節は冬。山頂付近はびゅうびゅうと寒風が吹き、視界も悪く、そのうち吹雪になったそうです。

さらにガスが立ち込め五里霧中の事態に。手塚先生はもう駄目だと観念し、連れの人に「もうおれはダメだ 遺言をいうから かきとめてくれ」と遺書の口述筆記を頼みました。しかし、ガスが晴れ、九死に一生を得て無事に帰れたのです。先生によれば、この体験は『ジャングル大帝』の最終回を描くのに役立ったそうです。

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