高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」木内幸男監督(取手第二高校、常総学院高校)

| 日刊大衆
高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」木内幸男監督(取手第二高校、常総学院高校)

 1915年(大正4年)から始まった全国高校野球選手権は、2015年で100年。それを記念して、野球史に名を刻んだ名監督たちによる激闘の記録と涙のエピソードを取り上げていきたい。最終回は茨城県立取手第二高校と、同じく茨城の常総学院高校を甲子園優勝に導いた木内幸男(きうち ゆきお)監督。異質の采配と戦術で数々の強豪校をねじ伏せた「木内マジック」の秘密に迫る!

 100年の歴史を刻んだ高校野球だが、木内幸男ほど型破りな監督は見当たらない。「木内マジック」と呼ばれた戦術戦略。ベンチ入りした選手を使い切る用兵術。そして何より驚くのは、グラウンドを離れれば、男女交際も容認する放任教育だったことである。

 監督人生も、貧乏物語を地で行った。土浦一高の監督時代は事実上の無給。取手二高に移っても、月給は4000円(後に6万2000円)だった。常総学院の監督に転じ、月給25万円になるが、それまでは、妻・千代子が質屋通いを続けていた。稼ぎの悪い亭主だったが、監督としては甲子園で3回も優勝を果たした。大会ナンバーワンと言われた桑田真澄(PL学園)やダルビッシュ有(東北高校)を攻略した「木内マジック」は、100年後まで語り継がれるに違いない。

 木内幸男は、1931年7月12日、茨城県土浦市で生まれた。9人兄弟の長男で、祖父は下駄の製造販売で財を成し、大きな土蔵を2つも持っていた。その土蔵の中に、新品でピカピカのバットがあった。木内の父が「ビクトリー」という野球チームのオーナーになっていたからに他ならない。

「ビクトリー」で野球の面白さに目覚め、旧制土浦中学(現・土浦一高)に入学した木内だったが、ショートを守ったデビュー戦は散々なものだった。<ショートゴロ八つ。ほんで、エラー七つだ。捕れたのが一つあったんだけど、それが暴投だった>(木内幸男著『オレだ!! 木内だ!!』)

 高校生活最後の夏は、水戸工と対戦。3対2と1点リードし、迎えた8回裏二死一、二塁。相手打者が放ったライナーを、センターの木内がダイビングキャッチを試みたが、レフトと交錯。打球は転々とし、2人のランナーが生還、逆転負けを喫した。そのとき、打球を捕れなかった悔しさが、コーチとして学校にとどまるきっかけになった。

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