高校野球100周年記念「甲子園名将列伝」木内幸男監督(取手第二高校、常総学院高校) (2/4ページ)

日刊大衆

そして、早々と2年後に監督のお鉢が回ってきた。

 家が裕福だったからこそできた無給の仕事だったが、祖父が長火鉢の前でバナナを咥えたまま急死。家業が傾き、一転、貧乏生活を強いられる。そんな木内を支えたのが、21歳のときに結婚した1歳上の千代子だった。土浦一の野球部長の後輩が取手二の野球部長だった関係で、木内は月給4000円で誘われ、取手二の監督になる。電気ゴタツが3000円だった1957年のことである。

<取手にやって来たあとだ。家内が内職に新聞配達をしてたってことがあって、それをまた、オレが知らなかったんだよ……。『なんでそんなことすんだ。みっともねえ、この野郎!』もう私はカンカンだ。そしたら家内が黙ってタンスを指さすわけ。開けてみると、着物が1枚か2枚しか入ってねえ……>(前掲書) 残りの着物は、すべて質屋へ消えたのであった。

 何度も甲子園に出場するようになり、月給は手取り6万2000円に跳ね上がったが、それでも生活は苦しく、住まいは市営住宅だった。その家の床が抜けたのは、甲子園で晴れて全国優勝を成し遂げたとき。記者とカメラマンが大挙して押しかけ、床が抜けてしまったのである。

 1984年8月21日、夏の甲子園大会決勝は、木内率いる取手二と、桑田真澄(2年=後に巨人)と清原和博(同=後に西武ほか)を擁するPL学園の戦いになった。1回表、取手打線が桑田に襲いかかる。ドラム叩きが趣味の一番・吉田剛(遊撃手=後に近鉄、阪神)は三塁ゴロ、2番・佐々木力(二塁手)はライトフライに倒れたが、ロックバンドのリーダーを務める3番・下田和彦(左翼手)がセンターオーバーの二塁打をかっ飛ばし、連続ヒットとエラーで2点を先行した。

 1回裏、取手二のエース・石田文樹(後に大洋)は二死二塁から4番・清原に四球、5番・桑田にショート内野安打を許したが、6番・北口正光(三塁手)をレフトフライに打ち取り、無失点。石田は父母会からプレゼントされた強精剤を飲んでマウンドに登っていた。6回裏、PLに1点を返されたが、7回表、吉田が桑田から2ランホーマーを放ち、4対1。ベンチはお祭り騒ぎになった。吉田の父は、常磐線の取手-勝田駅間の切符を手に、アルプススタンドで「取手勝った」と大喜びしていた。

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