【プロ野球】野村克也、伊藤智仁、イチロー…海外キャンプが転機となった男たち

”高速スライダー”伊藤智仁も海外キャンプが転機となった一人だ

「柵越え連発の大谷翔平に早くもパドレス、ラブコール」
「中田翔、アメ車破壊未遂弾にパドレス打撃コーチもビックリ!」etc…

 連日、賑わうキャンプ報道のなかでも、ひと際明るい話題が多いのは、アメリカ・アリゾナ州ピオリアで29年ぶりの海外キャンプを実施している北海道日本ハムファイターズだ。

 特に、提携先であるMLBサンディエゴ・パドレスがどんな評価をしていたか、という報道は、将来の海外挑戦も見据えながら、いろいろと興味深い。振り返れば、海外キャンプで人生の潮目が大きく変わった例は多い。過去の印象的なエピソードを紹介していこう。

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■1956年:南海ホークス「ハワイキャンプ」と野村克也

 キャンプで必死にアピールする若手選手。そんな光景は今も昔も変わらない。そして、海外キャンプでのアピールが実り、チャンスを掴んだ一人が、若き日の野村克也だ。

 1953年秋、テスト入団によってプロ入りを果たした野村。ただ、当初は選手としてではなく、ブルペンにおける「壁」としての採用。誰も戦力としては期待していなかった。

 そんな野村だったが、日頃の真面目な練習態度が評価され、3年目の1956年にハワイキャンプへの帯同を許された。このキャンプは前年にリーグ優勝した「ご褒美」的な意味合いもあったことから、主力組は練習そっちのけで遊んでばかり。ただ、野村は遊ぶ金もなかったことから、ひたすら練習と現地でのオープン戦に精を出し、特に打撃面をアピールすることに成功した。

 帰国後、記者団に囲まれた鶴岡一人監督は「ハワイでのキャンプは大失敗だった。だが、キャンプで唯一の収穫は、野村に使えそうなメドが立ったことだ」とコメント。その言葉通り、野村はこのシーズンから正捕手に抜擢され、「生涯一捕手」の野球人生へとつながっていく。

■1993、1994年:スワローズ「ユマキャンプ」の伊藤智仁

 フロリダ・ユマキャンプが野球人生の大きな節目となってしまったのが、ヤクルトの“悲運のエース”伊藤智仁だ。

 ドラフトでは3球団が競合。社会人No.1投手の肩書きを引っさげてプロ入りした伊藤。その代名詞でもあったスライダーを早くその目で見たかったのが野村克也監督だ。1993年のユマキャンプ開始早々、「ちょっとスライダーを投げてくれんか」と伊藤に催促した。

 ところが、伊藤は「体ができるまでは投げたくありません」とこれを拒否。野村監督は「若いのにこだわりを持っている奴だ」と感心したという。

 その年、前半戦だけで7勝(2敗)を挙げ、驚異的な奪三振率で新人王に輝いた伊藤。ところが、連投がたたって肘を故障してしまい、以降3年間1軍のマウンドに立つことはなかった……というのがよく知られたエピソード。だが、実際には1年目の肘の故障が原因ではなく、2年目のユマキャンプでの肩の故障がその後の伊藤の投手生命を狂わせたのだ。

『マウンドに散った天才投手』(松永多佳倫/河出書房新社)のインタビューで、伊藤は当時を振り返り、こんな言葉を残している。

「肘自体は手術せずにリハビリでなんとかなったのでダメージは少なかった。2年目のキャンプのときに肩をやったのが悔やまれます」
「本来なら投げながら筋肉ができていたのを、肘のリハビリばかりしていたので肩のほうを疎かにしてしまったんです。2年目のキャンプ、肘の状態がよかったので、肩もできていないのに調整を早めすぎて、バーンとやってしまって……」

 ルーキーイヤーに「体ができるまでは投げたくありません」と対応したにもかかわらず、2年目は体ができるのを待てなかった伊藤。それほど、1年目の途中リタイヤが不完全燃焼だったのか。それとも、ユマの温暖な気候が判断を鈍らせてしまったのか。悔やんでも悔やみきれない。

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