実はかなりの医学通だった! 徳川家康は「健康マニア」だったってほんと?

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1600年9月15日、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利し、歴史にその名を初めて刻みました。このとき家康は59歳。平均寿命が40歳にも満たなかったと言われる戦国時代において、すでに長寿の域に達していました。とはいえ、まだまだ徳川家の力は安定しておらず、基盤を整える必要がありましたし、西には生き残った豊臣家も潜んでいました。天下統一に向けての課題が、多く残っていたのです。

しかし周囲の心配をよそに、家康は75歳で亡くなるまで、精力的に改革をおこない、徳川家の力を強大なものへ成長させました。つまり元気で長生きすることが、徳川天下取りの条件だったのです。

■家康は自分で自分の調薬していた!

本能寺の変にて49歳で自刃した織田信長。戦の最中、伏見城で重臣たちに跡取りを託し62歳で病死した豊臣秀吉。そして徳川三代将軍の家光まで見届け、75歳で亡くなった徳川家康。

このように、三英傑(えいけつ)と呼ばれた三人の最期は三者三様ですが、家康が一番上手に幕引きをしたように思えませんか? 「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座して食らうは徳川家康」という狂歌もあり、いいとこ取りと思われがちな家康の人生ですが、光が当たったのは晩年を迎えてからなのです。

信長に仕え、その力を認められながらも、謀反を疑われたため、自分の妻子を死へ追いやるという非情なる決断を下すことになったり、秀吉には「けがれの多い国」を意味する穢土(えど)=江戸へ追いやられてしまうなど、歴史の表舞台へなかなか出ることができませんでした。それでも虎視眈々と自らが天下を取るチャンスをうかがっていたのでしょう。そのためには健康維持が必須条件だったのです。

元来から健康マニアの家康は、医者が手こずるほどの医学通でした。薬剤の専門書「和剤局方」を身辺から離さずに、その内容を覚えてしまっているほどに詳しかったそうです。しかも、自分が病気になった時には、自分で自分の症状に合わせた薬を調合していました。

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