実はかなりの医学通だった! 徳川家康は「健康マニア」だったってほんと? (2/2ページ)

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さらにはその薬の材料になる薬草を栽培するために、駿府城在城時に駿府御薬園を設立してしまいます。その後、江戸の小石川薬園にもこの薬草が分けられたといいます。

晩年には林羅山(はやし らざん)が長崎から持ち帰った医学書「本草綱目」をもとに、研究会を発足させるなど、自身の医学の知識を深めてはいましたが、側室や重臣が病気になったとしても、「ちゃんと医者にみてもらえよ」と、声をかけるばかりだったといいます。

家康の数十段のひきだしがある薬箪笥(たんす)には、たくさんの薬をため込んでいましたが、それは完全に徳川家のため、つまりは、家康とその跡取りのためにしか使われませんでした。

ちなみに、その甲斐あってか、家康は60歳を過ぎても、2人も子どもをもうけています。

■毎日の食事が「からだ」を作るとわかっていた!

日本で初めて減量療法を取り入れたという家康の食事は、天下人になってからも質素でした。好き嫌いせず、バランスのよい献立を好んだそうです。名古屋出身の信長や秀吉が、味の濃いものを好んだのに対して対照的でした。

そして、現在も薬酒として飲まれている「養命酒」は、江戸幕府ができた年に家康に献上されたと言われています。これを気に入った家康は、「飛龍」を目印として使用して良いと許可したというのです。ちなみにこの飛龍のマークは、今でも養命酒のパッケージやボトルに使われ、日本で最も古い商標のひとつとされています。

家康の死因は天ぷらの食べ過ぎだと言われていますが、現在では胃がんだったのではないかという見解が有力です。なぜなら、問題になっている天ぷらをたくさん食べた日、家康は自ら食傷と診断し、服薬しているのです。

しかし痛みは引かず、おかしいと思った家康は、これは死病だと悟り、その後一切の薬を無駄だと断ります。そして、家臣や後継者の秀忠に細かく今後の指示を与え、遺言を残しました。

豊臣家を排除してから1年も経ってはいない1616年4月17日、家康は75歳で天寿を全うしたのでした。

■まとめ

 ・徳川家康は、自分で薬を調合するほどの健康マニアだった

 ・薬草を栽培するために、駿府御薬園を設立した

 ・「養命酒」を愛飲。ロゴのマークをプレゼントしたと言われている

 ・現在、死因は胃がん説が有力。天ぷらの食べ過ぎではなかったらしい……

(沼田 有希/ガリレオワークス)

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