どうせ逃げてもムダだ──少女の「絶望」は、解放された際に発した言葉からもうかがえる。
事件の発覚は、「ひきこもり」が20年に及びXの言動が異常になってきたことを心配になった母が、強制入院をさせようとして保健所に連絡をしたことだった。そこで、部屋に押し入った保健所職員が、Xと一緒にいる18歳に成長した女性を発見したのである。
その時、住所を問われた彼女はこう答えた。
「私の家は、もうないかもね」
つまり、自分にはもはや「逃げ帰る場所」もないかもしれないと思い込んでいたのだ。少女の抱えた「絶望」は、我々の想像を絶するほどのものだったことはうかがえるだろう。
「少女監禁」という響きから、世の中がイメージするのは、鍵のあるような部屋に閉じ込めたり、ロープや自由を奪ったり、暴力で服従をさせたりという構図だろう。しかし、現実の「少女監禁」はそうではない。圧倒的に優位な立場にある「大人」が、言葉巧みなウソや脅し文句で「子供の希望」を根こそぎ奪い、「逃げてもムダだ」と思い込ませることにある。物理的な「監禁」ではなく、「絶望」という目に見えない「檻」に囲い込むことなのだ。
このような過酷な経験を強いられた少女たちの心のダメージは計り知れない。
新潟の事件でも、解放された女性はPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され、家族や親しい友人以外の人間と、関わりを持つにはやはりそれなりの時間を要したという。
今回の事件で、Aさんがアパートから自力で脱出し、駅の公衆電話から自宅に電話したことから、監禁をされていたわりに元気ではないのかという指摘もあるが、肉体的ダメージがなくとも、精神的ダメージがすさまじいケースも多い。卑劣な寺内の「ウソ」によって、逃亡を諦めていた自分を許せないという後悔も出てくるかもしれない。家族や友人以外に新たな人間関係を築くうえで、大きな障害になるというおそれもあるだろう。
Xは「美しいものをそのまま残す」ということに異常なまでの執着を見せており、私に刑務所への差し入れを頼む際にも、好きなアイドルやスポーツカーの写真に汚れがつかないように「ラミネート加工」をしてくれと言ってきた。その異様な世界観が、犯行に結びついた可能性は否めない。