太平の世を作り上げた江戸幕府の創始者である徳川家康は、天下を治める以前に、豊臣政権時代に「関東移封」というものを経験しています。
それは北条氏を駆逐した関東に、家康を封じ込めるというもの。
もちろん豊臣秀吉は家康に面と向かって「お前を関東に押し込める」とは言っていません。「関東のほうが広いから、そこで悠々自適にやれ」とでも言ったはずです。
ですが当時の関八州は伊達、上杉といった強豪と秀吉の若い頃からの戦友に事実上包囲され、家康はじっと身構える羽目になりました。
・家康包囲網
東海道の一拠点である掛川城。ここは秀吉の直臣である山内一豊が城主を務めていた時期がありました。もし関東移封後の家康が大坂に攻め込むとしたら、まずは東海道の諸大名を討伐しなければなりません。
駿府城の中村一氏、掛川城の山内一豊、浜松城の堀尾吉晴。いずれも秀吉の長年の戦友です。家康からして見れば、直線距離で70kmもないエリアに3人の猛者が控えているわけです。
では、東海道を諦めて中山道を通るか。道半ばには、あの真田昌幸がいます。どちらを選ぶにも、険しい道が待っているのです。
今回ご紹介する掛川城は、「豊臣VS徳川」のキーパーツとも言える拠点。
ここに山内一豊という男がいたという事実は、日本史を動かす軸となりました。
・「秀吉信者」が命綱
一豊は、平たく言えば「織田家配下の秀吉派」です。
今でもそうですが、人は出自の卑しい他人を差別します。それが自分を脅かすほどの才能の持ち主なら、なおさらです。人というのは嫉妬を材料に行動する動物かもしれません。
木下藤吉郎秀吉という「貧農の猿」に対しては、当然ながら織田家中で大きな反発もありました。
その筆頭が柴田勝家です。