人が動く! 人を動かす! 「田中角栄」侠(おとこ)の処世 第51回

| 週刊実話

 前2代の大平正芳、宮澤喜一両通産大臣がお手上げ、3年間暗礁に乗り上げていた「日米繊維交渉」は、その後を受けた田中角栄が通産大臣に就任してわずか3カ月で決着をみた。「イト(繊維)を売って、ナワ(沖縄)を買った」とのカゲ口もあったこの交渉落着ではあったが、田中は昭和46年10月15日、ニクソン大統領の特命を受けたデヴィッド・ケネディ特使を説得、屈服させた形で了解覚書に仮調印、政府間協定締結が事実上決まったということであった。

 田中のケネディ特使とのサシでの交渉は、まさに気迫の勝負であった。田中には一部に「外交でなく内政向きの政治家」との見方があったが、実はこれは全く見当違いである。「内政向き」と見るのは田中の持つ“土着イメージ”がさせたものにすぎず、決断早く、情緒的なものは排除して合理性を優先、押しまくる手法はむしろ「外交の田中」だったと見る方が当たっている。外交とは、「取引」そのものなのである。
 ために、外交交渉では、日本人特有の感性、情緒では通用せず、要は「あれはやるから、これはくれ」といった極めてドライなものとなる。押しの強さ、駆け引きの妙がなければ、外交交渉は成り立たないのである。
 後に首相になってすぐの日中国交正常化交渉や、同じくソ連(現・ロシア)へ飛んでの首脳会談で「北方領土問題は戦後未解決の懸案」とする文言を共同声明に入れさせることに成功したことは、こうした「田中流」を明らかにしている。

 さて、そうした一方で、来年5月(昭和47年)の「沖縄返還」を花道に退陣が事実上決まっている佐藤栄作首相の後継を巡る火花は、激しさを増していた。
 年が明けた昭和47年1月、佐藤首相は福田赳夫外相と田中通産相の佐藤政権を支える“龍虎”を同行、突然の訪米で時のニクソン大統領とのサクラメントでの首脳会談に臨んだ。しかし、すでに沖縄返還協定の調印は半年前に終わっており、なぜあえてこの期の訪米なのか、とりわけ自民党内では憶測が飛び交ったものであった。

 佐藤首相は「沖縄返還の期日を確定するためにニクソンと会う」とその理由を口にしたが、一方では「雑音入り交じる国内を離れ、田中に因果を含めて“ポスト佐藤”の総裁選出馬を断念させようとしているのではないか。

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