深紅の優勝旗を目指し、熱戦続く夏の甲子園。今年1月、この「優勝旗」にまつわるある発表があったのを覚えているだろうか。
それは、来年、第100回大会にあわせて優勝旗を新調する、というもの。現在の優勝旗は「2代目」にあたるのだが、この2代目の優勝旗を手にすることができるのは今夏の王者が最後になる、というわけだ。
初代の優勝旗は1915年の第1回大会から1957年の第39回大会まで使用。2代目は1958年の第40回大会から今年の第99回大会まで。60年に渡ってその大役を務めてきたことになる。
今回の報道の中には、《優勝校を転々とするうちに傷んだため第40回記念大会を機に今の2代目へ》と記したものもあったが、傷んだのには他にも要因がある。初代優勝旗を巡る波乱のドラマを振り返ってみよう。
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■優勝旗を折ってしまった「甲子園の申し子」
球児の誰もが憧れる深紅の優勝旗。そんな大事なものをかつて折ってしまった球児がいた。その人物の名は、藤村富美男。後に「初代ミスタータイガース」と呼ばれた男の学生時代のエピソードだ。
16歳のときから甲子園のマウンドに立ち、「甲子園の申し子」と呼ばれるほどの人気を獲得していた藤村。最終学年となった1934年、広島・呉港中(現呉港高)をついに優勝に導き、深紅の優勝旗を手にした。
地元広島に凱旋すると、駅前には呉港中ナインを一目見ようという黒山の人だかり。特に、エースの藤村のまわりの混乱ぶりは凄まじかった。そんな状況にもかかわらず、藤村は優勝旗を皆に見せようとした結果、旗の柄の部分が人垣にぶつかってポキリと折れてしまったのだ。
その場はどうにかやり過ごしたものの、翌夏には優勝旗を返還しなければならない。慌てて旗屋に折れた優勝旗を持ち込み、柄の部分を取り替えた、というエピソードが残っている。