抜群のプロポーションと男の目を引くルックスで、独特のポジションを築いた中村晃子(69)。唯一、出場した68年の紅白は、リベンジの舞台でもあった。
──68年はグループサウンズが全盛の時代。ただ、人気絶頂のザ・タイガースもザ・テンプターズも「髪が長い」を理由に紅白とは無縁でした。
中村 そうだったわね。でも私も長らく「NHK出入り禁止」だったの。
──えっ、それはどういう理由で?
中村 へそ出しで歌ったから(笑)。以来、マネージャーがどれだけ売り込みに行っても、NHKの歌番組には出させてもらえなかった。
──当時のジャケット写真を見ても、60年代とは思えないくらい最先端です。
中村 そう! 私、ジーンズをはきだしたのも、いちばん早かった。ただ、開通したばかりの新幹線に乗ったら「ジーンズで新幹線に乗るとは何事だ!」って怒られたけど。
──その延長線上に「へそ出し」もあったんですね。
中村 日本の女優さんでは、そういうことをやる人がいなかったのね。私はフランスのミレーユ・ダルクって女優に憧れて、74年に出した「薔薇の囁き」では、お尻の割れ目が半分くらい見える黒いドレスで歌ったのよ。
──覚えています! もう、放送コードに引っ掛かるんじゃないかという過激な衣装で(笑)。今年8月28日に亡くなったミレーユ・ダルクは、アラン・ドロンのパートナーとしても有名でしたね。さて時計の針を戻して、67年に発売した「虹色の湖」がチャート3位の大ヒットとなり、翌68年の紅白に初出場。いわゆる「1人GS歌謡」と呼ばれたビートの効いた名曲でした。
中村 これは「へそ出し」でも「お尻の割れ目見せ」でもないよ(笑)。この時はミリタリールックだったわね。当時のGSの男の子たちと同じような衣装。
──歌手として紅白に出場するのは悲願でしたか?
中村 私は女優から来ているから、歌手になるなんて思ってもみなかった。