天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 中曽根康弘・蔦子夫人(下)

| 週刊実話

 中曽根康弘を評して、政界の「風見鶏」との異名があった。「風見鶏」は、風の吹き様でクルクルとその向きを変える。また、自分に利ありとすれば、批判していた勢力と手を握るなど、思想、信条、信念はどうした、とのヤユの声もある。
 なるほど、その“政界遊弋史”をめくってみると、当たらずとも遠からずが散見できる。7年8カ月の戦後最長期政権を維持した佐藤(栄作)内閣のときが、その白眉とも言えたのである。

 中曽根は将来を期して中曽根派を旗揚げした頃は、「佐藤政権批判の精神をあくまで貫く」としていたが、冷や飯期間の長さにシビレが切れたか、第2次改造内閣で声を掛けられるとさっさと運輸大臣として入閣してしまった。中曽根派内では「それはおかしい」の声が渦巻いたが、中曽根は次のような“弁舌”でその不満を押え込んだのだった。
 「(反主流派にあって)いつまでも犬の遠吠えでは効果がない。刀の切っ先が相手に届くためには、まず相手に近づく必要がある。佐藤総理のために入閣するのではなく、政治家として、堂々、国家国民のために働くためであります」

 中曽根を取り込んだ形の佐藤は、中曽根を第3次内閣でも防衛庁長官に起用。中曽根としても出世の階段を登り始めたことを実感したか、この防衛庁長官時には「私は沖縄の施政権返還が成るまで佐藤総理を守るッ」とも“宣言”し、佐藤を喜ばせ、中曽根は次の改選人事では今度はまんまと党3役の一角、自民党総務会長のポストを手に入れてしまう結果にもなった。
 その佐藤政権後は、それまで距離があった田中角栄の「角福総裁選に臨む」と佐藤の意向を蹴った形で田中を支持、田中内閣では通産大臣など約2年後の退陣まで、ぶっ続けで大臣のイスに座り続けたのだった。
 また、田中が金脈問題などで退陣をよぎなくされる寸前には、微妙に体をかわしていたのが功を奏し、次の三木(武夫)政権下では総理・総裁を目指す者には必須ポストとされる幹事長のイスが転がり込んだといった具合だった。
 さらには、その三木政権が潰れると、そのあとの福田(赳夫)政権下ではさすがに三木と“同罪”で野に下らざるを得なかったが、その後の大平(正芳)政権の前半では非主流派改メ反主流派に転じ、しかし、後半には反主流派改メ主流派入りと、なんとも目まぐるしかったのである。

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