選抜で3度チームを日本一に導いた名将…箕島の尾藤公監督

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選抜で3度チームを日本一に導いた名将…箕島の尾藤公監督

 1970年代の10年間で3度の春選抜制覇を成し遂げたチームがある。今は亡き名将・尾藤公監督が率いた和歌山の名門・箕島だ。

 初優勝は監督就任5年目の1970年第42回大会。チームの中心となったのがエースで4番の島本講平(元近鉄など)であった。前年夏の選手権で大活躍した三沢(青森)の太田幸司(元・近鉄など)にちなんで“2代目コーちゃん”と呼ばれた島本は女性ファンの大歓声を浴びたアイドル球児。その島本が初戦から投打に活躍し、優勝候補の東海大相模(神奈川)を6‐2、前年王者の三重を4‐1で撃破。準決勝の古豪・広陵(広島)との一戦でもこの大会、島本と並ぶ好投手といわれた相手エース・佐伯和司(元・広島東洋など)から8回表にタイムリー三塁打を放ち、投げては被安打3の完封勝利を挙げた。この島本の投打に渡る活躍で、3‐0で勝利した箕島がついに決勝戦へと進出する。決勝戦の相手は前年秋の近畿大会決勝で苦杯を舐めた北陽(現・関大北陽=大阪)だった。試合は3‐3の接戦で延長戦へと突入。10回表に1点を勝ち越されるもその裏、箕島は2死から追いつく。そして延長12回裏に劇的な幕切れが待っていた。2死三塁から島本自らがライトへサヨナラタイムリー。一度負けた相手に晴れの舞台で雪辱し、みごとにチームを初優勝へと導いたのである。

 2度目の優勝はこの7年後の77年第49回大会。1番・上川誠二(元・中日など)を筆頭にパンチ力ある打線が魅力だったが、一番の原動力は定時制に通う勤労球児の左腕エース・東裕司(三菱自動車水島)であった。名古屋電気(現・愛工大名電=愛知)を1‐0、豊見城(沖縄)を10‐0、県岐阜商を7‐3、智弁学園(奈良)を2‐0で下して決勝戦へと進出。最後は部員わずか12名で勝ち進んできた“二十四の瞳”中村(高知)を被安打3の3‐0で完封。この大会、東は45回を投げて失点は準々決勝の県岐阜商戦の9回表の3点のみとほぼ完璧な投球で箕島を2度目の栄冠へと導いたのである。

 そして3度目の優勝がこの2年後の79年第51回大会。この年、箕島は史上3校目となる春夏連覇を達成するのだが、石井毅(元西武、現在は木村竹志)ー嶋田宗彦(元阪神)のバッテリーを中心に前年春夏の甲子園で活躍したメンバーがそろっており、優勝候補の筆頭だった。

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