問われる墓の存在理由 墓は再定義が必要? 改めて考える墓

| 心に残る家族葬
問われる墓の存在理由 墓は再定義が必要? 改めて考える墓

墓の存在理由が問われている。盆と彼岸に家族で墓をお参りし、家族の近況を報告したり子供たちの成長を披露したりするというかつての日本であれば当たり前だった風景が、時代と共に少なくなっていることを実感する。

■墓に関連する千の風と恐山から考察

近年は集団就職などで上京してきた世代が定年を迎え、終の住処としての墓を意識するようになってきたといい、費用や墓を維持する問題などで散骨や樹木葬などを希望する人も多い。また、科学的合理的思考が支配する現代において、そもそも昔ながらの「墓」なるものに意味を見出せない人も増えているのではないだろうか。

筆者はそれでも日本人のメンタリティに「墓」は根強く残っていると考える。日本人にとって墓とは何か。霊場「恐山」と、一大ブームを起こした「千の風」との比較を通して考察する。

■「千の風」 墓の存在やイメージ

2006年、新井満が訳したアメリカの詩に曲をつけ、秋川雅史が歌う「千の風になって」がこの年を代表するヒット曲となった。
この詩は”私のお墓に来て泣かないでほしい、そこに私はいない”という内容だ。ではどこにいるのか?“私は風になり、雨にあり、太陽となって照らしている”というロマンチシズム溢れる詩である。
その死生観を一言で表すなら天地自然そのものがそのまま神であるとする汎神論的な世界観が反映されていると思われる。万物自然に「カミ」を見出すような感覚は神道的であるし、一木一草に「仏
を見出す本覚思想などが定着した日本人には受け入れやすいのかもしれない。
「千の風」は“私は死んでなどいない、いつも形を変えて、あなたの近くにいる”と残された人に希望を説き、大切な人が常にそばにいるという安心感を与えてくれる。また伝統的な「墓」以外の葬送形式を希望する人にとっても心強さを得るものだったのではないか。

■「恐山」 言葉にならない想い

だがこのロマンチシズムは大切な人の死に直面した、本当の喪失感に喘ぐ人にどこまで届くだろうか。筆者には悲しみを湛えつつも、美しい死生観・世界観を愛でるある種の「余裕」が見える。大切な人はいつもそばにいると考える人がいる一方で、「あの人に会いに行く」人たちもいる。

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