天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 森喜朗・智恵子夫人(上)

| 週刊実話

 石川県立金沢二水高校時代、主将としてラグビーに明け暮れた森喜朗は、こんな人生観を学び取った。後年の森の言葉である。
 「ラグビーの楕円球のボールは、ときにとんでもない方向を転々とする。リバウンドしたボールが自分の手元に返る確率は、100分の1以下と言われている。まさに、人生がどのように展開していくか分からないのに似ている。私の人生もまた、ラグビーボールそのものだと思っている」
 なるほど、森の人生、政治生活は「リバウンドしたラグビーボール」に似た転変をたどった。妻・智恵子もまた、そうした森を見守るだけに、なんとも刺激の多い日々を送るのである。

 森はあの大リーグ・NYヤンキースで活躍した松井秀喜と同郷の石川県根上町の生まれで、父親は町長を務めていた。高校を卒業すると早稲田大学に入り、当然のようにラグビー部に入った。しかし、入部して間もなく体調を崩したことからラグビーを断念。次に入ったサークルには、東南アジアの留学生が沢山おり、交流を深めようという趣旨の『国際学友会』というサークルであった。同大の教育学部にいた智恵子とは、ここで出会った。ラグビーボールは、早くもここから転々とするのである。
 初めて会ったとき、ちょうど水泳で真っ黒に日焼けしていた智恵子に、こう森が声をかけた。「あなた、お国はどちらですか」。森は、色の黒さから智恵子をタイかインドネシアあたりから来た留学生とカン違いをしたのだった。当時の森は太ってはおらず、「背は高く、なかなかのハンサム。それ以上に、物事に律義、几帳面、夢を持っていてかわいい人だなというのが印象でした」というのが、その頃の智恵子の印象であった。
 結婚はともに大学を卒業した1年後だったが、ラグビーボールはまた意外な方向へ転がるのだった。

 森は産経新聞社に入社、系列の日本工業新聞の記者となるが、その1年後に退職して代議士の秘書に転じてしまったのである。理由は、父親が町長止まりだったこともあり、それなら自分は国会議員になってやろうとの野望であった。森は大学時代、国際学友会のサークルに入る一方、将来を期して雄弁会にも入部、その活動にのめり込んでいたのである。
 代議士秘書になって6年後、森に石川県からの総選挙出馬のチャンスが巡ってきた。自民党公認は取れず、無所属での出馬である。

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