天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 森喜朗・智恵子夫人(上) (2/2ページ)

週刊実話

神奈川県横浜生まれの智恵子は、石川県の選挙区の風土、風習になじめなかったこのときの選挙の手伝いを、こう述懐している。
 「長男が4歳、まだ乳飲み子の長女のおしめを換えながらのテンテコ舞いでした。長女を連れていると、後援者から『なんで選挙をやる人間が無計画に子供を産んだのか』と怒られたり…。時間は昼、夜なしで、家にもまともに帰って来ないという新聞記者の妻時代も加え、何があっても怖くない、ちょっとのことではへこたれないガマン強さをこの選挙で身につけたものです」(『THEMIS』平成13年7月号=要旨=)

 やがて、森は自民党に入党後、実力者の階段をのぼり始めた。ついには党ナンバー2の幹事長に就任する。こうしたさなか、自民党国会議員の夫人たちの情報交換の場として、『ワイブズ・ネットワーク』なる会が発足した。世話役は党3役経験者の夫人たちが務め、年に1回、食事会を兼ねた総会がある。智恵子も、世話役の常連となった。当時の森に近かった議員は、こんな話を残している。
 「あるときの会で、夫人たちの話題に『夫のために死ねるか』というのが出た。大方の夫人たちは『子供のためなら分かるけど、旦那のためにというのはねぇ』と、いわばノーということだった。ところが、ふだんは口数の少ない智恵子夫人のみ、『子供のためにも死ねるけど、私は夫のためにも死ねるわ』と、周りの夫人たちの目を見張らせたというのです。以後しばし、夫人たちの間では、『ハラの一番すわっている奥さんは森さんの奥さん』で一致したと言われていた」

 ラグビーボールは、またまた転々とした。折から、小渕恵三首相が突然の病魔に倒れ、再起の見通しがつかぬ中で、後継首相に幹事長の森が押されたのである。当時、森は閣僚経験は文部大臣1回だけで、幹事長ともども政調会長、総務会長を踏んでいる「党務の人」として、「総理の器」としては疑念の声が多かった。しかし、自民党としては“緊急避難”として、時の青木幹雄官房長官ら党首脳5人による“密室協議”のうえ、森を小渕「後継」としたのだった。当時の政権は、自民、公明、保守新党の3党連立、「5人組」としては、政権維持を最大目的とし、“強力かつ穏便”に森を担ぎ出したということだった。
 だが、案の定と言うべきか、「総理の器」を問われた森政権は、発足間もなくから大波に揺さぶり続けられることになる。妻・智恵子もまた、予期せぬ“針のムシロ”にすわらせられるのだった。
=敬称略=
(この項つづく)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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