楽器としてだけでなく信仰の道具としても用いられていた「鉦鼓」

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楽器としてだけでなく信仰の道具としても用いられていた「鉦鼓」

1965年、東京都指定有形文化財に指定され、現在立川市内の個人宅に所蔵されている「立川原合戦戦死者供養鉦鼓(しょうこ)」がある。これは1504年9月27日の「武州立川原合戦」における無数の戦死者の霊を慰めるために、武蔵國毛呂郷(現・埼玉県入間郡毛呂山町)の領主であった毛呂土佐入道幻世が銅製の鉦鼓を48台作らせ、百万遍の念仏供養を行ったと記されたうちの1台だ。入間郡付近で発見されたものだが、場所や当時の状況などの詳細は不明である。総高は6.9cm、最大径は19.2cm。鐘座は円形で無文、中央に阿弥陀如来の種子(しゅじ)を置き、2行54文字で先に挙げた、鉦鼓にまつわるいわれが刻まれている。

■仏具で楽器でもある鉦鼓

「鉦鼓」とは仏具の一種である。もともとは楽器で、雅楽で使用されるものだ。形は「どら焼き」のように中央部が丸くゆるやかに膨らみ、上縁2カ所に穴の空いたつまみが付いており、これに紐を通して台に吊るして使用する。後に仏教に取り入れられた。

平安時代中期の空也上人(903〜972)は、この鉦鼓を首にかけ、細く小さな槌(つち)で音を鳴らし、踊り念仏の拍子に用いることを考案したと言われている。しかも鉦鼓は単なる「音を出す道具」として使われていたばかりではなかった。例えば平安時代末期から鎌倉時代の僧で、源平の合戦で荒廃した奈良・東大寺を復興させた重源(ちょうげん、1121〜1206)は鉦鼓を「信仰の道具」として用いていたようで、東大寺の宝蔵には1198(建久9)年に奉納したものが1台残っている。

それは現在もなお、奈良県・當麻寺(たいまでら)で行われている二十五菩薩来迎のための儀式に用いたものだと推察されている。こうした習わしが一時的なものではなく、日本国内で長きに渡って継続していたことから、毛呂幻世が戦乱で亡くなった人々のために48台の鉦鼓をつくらせたのだろう。



■鉦鼓が信仰のために使用された立川原の戦い

立川原の戦いに限らず、応仁の乱(1467〜1477)前後から、当時の日本国内は大いに乱れ、下克上の風潮が蔓延し、君臣父子の仁義、兄弟朋友の仲も廃れ始めていた。その結果、日本全国各地で大小様々な戦が起こった。いわゆる「戦国時代」だ。

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