楽器としてだけでなく信仰の道具としても用いられていた「鉦鼓」 (2/3ページ)

心に残る家族葬

そうした状況下で起こった立川原の戦いだが、はっきりとした場所は特定できない。現在の立川市内で、当時この地を治めていた立河氏の所領内から、府中市の分倍河原(ぶばいがわら)までの、多摩川のどこかの川原で2回勃発したものだと考えられている。

1度目は1455(享徳4)年に鎌倉公方(くぼう)の足利成氏(しげうじ)軍と、室町時代(1336〜1573年)から、関東管領を歴任していた名家・上杉一族であった山内(やまのうち)上杉家・扇谷(おおぎやがつ)上杉家連合軍との戦い。

そして2度目の1504(永世元)年、今度は山内上杉家と扇谷上杉家による「お家騒動」。この戦いに、毛呂幻世の鉦鼓が絡んでいる。なかなか勝負は決さなかったものの、最終的に、小田原の北条早雲(1432〜1519)や駿河の今川氏親(うじちか、1473〜1526)が味方についた山内上杉家が勝利した。幻世は山内上杉家側について戦ったのだが、鉦鼓に「戦死不知員」と刻まれた文言から察するに、一族郎党内から多くの犠牲者を出したようだ。そこで幻世は戦が終わった後、48台の鉦鼓をつくり、百万遍供養を通して亡くなった人々の霊を慰めたのである。

■最後に・・・

もしも今後、毛呂山町やその近郊で、大規模な造成工事が行われることがあったとしたら、土中奥深くから残りの47台の鉦鼓が出土するかもしれない。または、入間郡内の旧家の蔵を取り壊すことになった際、唐櫃の奥から見つけ出される可能性もある。そうなったとしたら、見つけ出された鉦鼓は、毛呂山町の歴史や仏教文化研究に大いに役立つことになるかもしれない。

しかし、幻世に供養された側の、かつての立川原合戦の犠牲者たちは、21世紀の今の日本に現れ出たいだろうか。それともそのまま、永久に、誰の目にもつかないまま、埋もれたままでいた方がいいと思うだろうか。

映画やドラマになるほどの、大がかりで華々しいものに限らず、戦国時代にあちこちで起こった合戦における、忘れられた犠牲者たちは、数限りないだろう。鉦鼓で供養された人々は、たとえ望まぬ死であったとしても、主君に忘れられず供養してもらえただけ、幸せだったのかもしれない。

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