歴代総理の胆力「伊藤博文」(1)稀代のオンナ好きだった

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歴代総理の胆力「伊藤博文」(1)稀代のオンナ好きだった

 慶応3(1867)年、江戸幕府は朝廷に大政奉還を行い、ここに260年以上にわたった徳川幕府に終止符が打たれた。その後、明治新政府が設立され、西洋文明の先進技術などが取り入れられる「文明開化」の中で、国内では「自由民権運動」の気運が高まり、明治18(1885)年、近代的な内閣制度が発足した。初代内閣総理大臣に任命されたのが、今日にして「歴代最年少」44歳の伊藤博文だった。

 内閣制度は憲法の施行が前提であったことから、制度発足4年後には「大日本帝国憲法」が発布され、ここに西欧列強を向こうに回してのアジア初の本格的な立憲君主制を制度化した「大日本帝国」が成立したのだった。

 その「近代化」実現の背景には、保守的でいささか気難しいところのあった明治天皇の、伊藤に対する強い信頼感があった。一方、農民出身だった伊藤は格式や建前に囚われることなく、この国にプラスとなるとみると何でも取り入れる度量があった。また、人柄は明るく天真爛漫、かつ、権力、金銭欲がなかったことも、明治天皇が信頼する所以であった。

 伊藤の持ち前の如才なさは「根回し上手」として機能し、それまでの藩閥政府と明治天皇との調整役、緩衝役としてはまり役でもあった。これも、明治天皇の信任を得た大きな要因だったのである。

 かくて、初代内閣総理大臣として、大日本帝国憲法発布という大仕事を成し遂げた伊藤だったが、あけっぴろげの人柄から庶民人気もなかなかだったが、「玉にキズ」の部分があった。まさに「英雄色を好む」、稀代のオンナ好きだったのだ。

 例えば、金銭には恬淡としていた伊藤は、夫人から生活費を求められると、「カネはないから家を売ったらどうか」とやって、夫人をア然とさせるほどだったが、ことオンナとなると目の色が変わるのだった。特に芸者には目がなく、片っ端から手をつけたことで、座敷では「箒ほうき」のアダ名があり、「千人斬り」は国民にも広く知られた異名だった。総理になった頃は、「睡眠は3時間も取れば十分」と豪語、絶倫ぶりが窺えた。

 こうした伊藤のオンナ好きは結婚当初から。明治の俊英たちが学んでいた吉田松陰主宰の山口県の「松下村塾」時代に結婚したのはおすみだったが、彼女が病気で早逝すると、すかさずその妹を妾としたものだった。

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