田中角栄「怒涛の戦後史」(3)小佐野賢治(下)

| 週刊実話

 田中角栄は昭和47(1972)年7月、ライバル福田赳夫との「角福総裁選」を制して、ついに首相の座に就いた。この総裁選のさなか、すでにメディアの社会部系記者の間では、田中の怪しげなカネにまつわる話が半ば公然と流布され、たとえ総裁選で勝ち上がっても「三日天下に終わるのではないか」という見方も出ていたのだった。

 そうした状況の中、側近秘書二人が田中に次のような進言をした。一人は共同通信社の政治部出身で政策通として知られていた麓邦明、もう一人が「東京タイムズ」政治部出身の早坂茂三であった。いずれも将来を期した田中が、秘書として雇ったものである。田中の個人事務所で、麓は政策、早坂は広報を担当した。

 二人は口をそろえるように言ったのだった。

 「オヤジ(田中のこと)さん、あなたが天下を取っても、命取りになるのではと心配していることがあります。佐藤昭子さん、小佐野賢治氏と、手を切っていただけないでしょうか」

 佐藤昭子は田中と同じ新潟県の出身で、昭和21年4月、田中が衆院選に初出馬(このときは落選)した時期に知り合い、やがて愛人関係となって、麓や早坂ともども田中の個人事務所で秘書として働いていた。頭も切れることから、ついには「田中の金庫番」「越山会(田中の後援会名)の女王」として、永田町では知らぬ者なし、とくに田中派議員からは一目置かれる存在になっていた。

 麓と早坂が別れ話を切り出したそのときは、すでに20年以上の愛人関係が続き、田中と「二人三脚」で政治活動にたずさわっていた。天下を取れば、半ば公然としての愛人、そして田中の集めるカネの流れも熟知していることから、必ず佐藤はこの2点で“標的”にされる。だから、手を切るべきというのが、麓と早坂の気持ちだった。

 また、佐藤とともに「手を切るべき」とされた小佐野については、田中とのカネをめぐる関わりの中で新たな問題が噴出しかねず、ヘタをすればこれが命取りになるとの危惧があった。この進言の返事に窮した田中は、数日してから二人にこう答えた。

 「佐藤は切れない。君たちには分からない事情もある。小佐野は“シャイロック”だ。あれはケチで、君らが心配するほどゼニなんか寄越しちゃいない。

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