田中角栄「怒涛の戦後史」(3)小佐野賢治(下) (2/3ページ)

週刊実話

心配に及ばずだ」

 結局、受け入れてもらえないのならと麓は田中から去り、一方の早坂は秘書としてとどまることになった。

 ちなみに、田中は「小佐野はケチだ」と口にしたが、実のところ小佐野の“カネばなれ”については、こんなエピソードがある。

 料亭での座敷で、小佐野はチップの意味合いを含めて、芸者にキッチリ100万円の入った財布を渡すのが常だった。好きなだけ取れということである。芸者は「お言葉に甘えて」と何枚かの1万円札を抜き、財布を小佐野に返す。小佐野はあとで、何枚の札が残っているかを確認し、サービスに見合わぬ札を取った芸者は、二度と座敷に呼ばなかった。

 つまり、“採算”に見合わぬ商売はしないという小佐野の「哲学」が、遊び一つにも表われていたということである。

★「刎頸の友」にあらず

 さて、田中がいよいよ首相の座に就いたあと、先の麓と早坂、二人の秘書の心配は図星となった。

 政権2年目、雑誌『文藝春秋』に「田中角栄研究」が掲載され、田中は金脈問題とともに佐藤昭子との関係を天下にさらされることになる。これがもとで田中は、内閣総辞職に追い込まれるのだった。

 そして、この内閣総辞職から2年足らずで、今度はロッキード事件が表面化、この捜査の中で今度は小佐野の名前が出たのであった。

 ロッキード事件は、米国ロッキード社からのトライスター機の導入をめぐり、田中にロ社から5億円のワイロが流れたという疑惑で、結局、田中は逮捕されている。この事件のカネの流れは、全日空ルート、丸紅ルート、児玉(誉士夫)ルートがあったとされ、小佐野は交流のあった児玉の依頼を受け、田中への道をつけるため一枚噛んだのではないかと追及された。小佐野は国会での証人喚問を受けたが、核心に触れるような質問には「記憶にございません」を連発した。

 この事件の裁判は、田中が一審、二審とも有罪判決を受けたが、田中自身はなお「潔白」を主張、最高裁への上告のさなかの平成5年12月16日、自らの逝去をもって公訴棄却となっていた。また、一方の小佐野はすでに、昭和61年10月27日、田中より8年前に逝去していた。佐藤昭子も、今日、すでに鬼籍に入っている。

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