歴代総理の胆力「高橋是清」(3)「蔵相としての手腕はAクラス、総理としてはゼロに近い」

| アサ芸プラス
歴代総理の胆力「高橋是清」(3)「蔵相としての手腕はAクラス、総理としてはゼロに近い」

 生まれて数日後に里子に出され、少年期に語学と文明を知るために米国に渡ったものの「奴隷」として売り飛ばされる寸前で難を逃れた。帰国後は、東京・日本橋の芸者の「箱屋」として、遊蕩生活、さらに生来のヤマッ気からペルーで銀山経営に乗り出したが詐欺に引っかかって大損、奈落の底に突き落とされるなど、「波乱万丈」という言葉は、高橋是清のためにある感があった。転職は教師など、実に20回に及んだものである。

 しかし、その間、経済・財政を、猛勉強、その能力を買われて官界入り、日本銀行総裁としてわが金融界の重鎮となったあと、ついには内閣総理大臣となったのだった。こうした高橋の出世街道での特色は、「オレが」の姿勢は一切見えずの無欲恬淡(てんたん)、人から引き上げられ、推されるというのがパターンであった。時代は変わっても「オレがオレが」の人物より、一歩引いた重心の低い者が出世街道を歩むケースが多いのは変わらないようである。

 さて、総理としての実績はと言うと、内閣改造が行き詰まり、あっさり投げ出してのわずか212日と短かったことも手伝い、残念ながら極めて乏しかった。

 内政的には、前任の原敬内閣で膨らんだ財政の抑制に取り組み、かろうじて地方会計予算や新規計画施策の見直しなどで、1億円の歳出削減には成功した。当時の1億円は遊郭の“ショート・タイム”が1円強だったことからすると、現在なら1兆円ほどの規模になり、なるほど「財政家の高橋」の面目躍如のところではあった。

 一方、対外的には日英同盟を破棄した代わりに、英米仏との4カ国条約を結び、太平洋地域の状況を安定させた。また、英米との協調体制をとることで海軍の建艦競争に歯止めをかけ、ここでも財政圧迫緩和へエネルギーを注いだといったところにとどまった。施政への視野は、総理として広いとは言えなかったということである。

 しかし、自らの内閣をはさんでの前後7度という異例の大蔵大臣ポストでは水を得たように、存分に「金融の重鎮」ぶりを発揮し続けた。まさに、後世の大方の評価、「蔵相としての手腕はAクラス、総理としてはゼロに近い」ということだった。

 蔵相としての役回りは、総理経験後の田中義一、犬養毅、斎藤実、岡田啓介内閣で連続してと、異例中の異例であった。

ピックアップ PR 
ランキング
総合
社会