田中角栄「怒涛の戦後史」(11)内閣総理大臣・池田勇人(上)

| 週刊実話

 「腐った橋でも、橋はワシが渡ったあとに落ちる。ワシはつくづく、運の強い男だと思っている」。田中角栄は自らの「強運」ぶりを、こう語ったことがある。

 日中戦争の際は応召先の満州で、死線をさ迷う肺炎をわずらって内地送還、その後、奇跡的な病状回復を果たして政界への足がかりを得たことなど、人との邂逅(出会い)によって、目指す人生のトビラが次々と開いていったことを指している。

 その政界入りでも、当時は東大法学部卒の官僚出身者全盛の時代であった。尋常高等小学校卒の田中には「出番」などなかったはずだったが、人格、識見に優れた外交官で、首相を辞めたばかりの幣原喜重郎に、1年生代議士ながらかわいがられた。ここで「内政」ばかりに気を取られてきた田中は、それまで乏しかった「外交」の重要性に目を開くことができたのである。

 次いで、保守政治の「本流」であった吉田茂に認められて、「吉田学校」に“入校”を許された。ここでも、圧倒的多数の官僚出身者が幅を利かす中、異例の吉田への接近が可能となった。この「吉田学校」にもぐり込めたことで、田中にはさらに次のトビラを開く機会を得た。「吉田学校」の“優等生”として吉田に高く買われ、大蔵省事務次官退官後、衆院議員となり、蔵相や通産相などを歴任した池田勇人との出会いが待っていたのである。

 昭和35(1960)年7月、その池田は、前任の岸信介が「日米新安保条約」の成立を機に内閣を総辞職したあと、「寛容と忍耐」の姿勢と「月給2倍論」を掲げて第1次池田内閣を発足させた。その1年後の第2次改造内閣では、田中に自民党の役員三役の一つ、国家予算を党側から眺む政調会長ポストを任せている。

 それまでの田中は、戦後初の30代で岸内閣の郵政大臣に抜擢され、その後は党の副幹事長を務めた。郵政大臣では、テレビ時代を迎えるにあたっての最大の政策課題、至難のワザでもあった大量のテレビ局予備免許申請に大なたを振るって整理、落着させた。また、副幹事長としては日米新安保条約の成立に八面六臂の活躍が目を引いた。しかし、池田が政調会長に抜擢した理由は、こうした「腕力」だけではなかった。

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