歴代総理の胆力「吉田茂」(1)総理大臣就任は、運の強さと偶然性によるもの

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歴代総理の胆力「吉田茂」(1)総理大臣就任は、運の強さと偶然性によるもの

 敗戦による荒廃と、占領という未曽有の時代に、とにもかくにも国民を飢餓から救うため経済の復興に尽力、独立と国際社会への復帰のレールを敷いた吉田茂は、一方で独断専行への批判はあったもののその「胆力」、リーダーシップは戦後宰相の中では第一人者であったことは認めざるを得ない。

 なぜならば、いくつかの重要政策の選択が、戦後74年経ったこの国の現状に大きな瑕疵(かし)を与えていないことによる。まさに、政治家の実績、評価は、「柩(ひつぎ)を覆(おお)うてのち定まる」の伝である。

 その吉田の総理大臣就任は、運の強さと偶然性によるものと言ってよかった。本来なら、前任の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)が退陣したことで、後継はときの第一党、自由党総裁・鳩山一郎が就くべきであった。まだ旧憲法下であることから、幣原は鳩山の総理大臣就任を奏上(そうじょう)した。ところが、折悪しく、鳩山はパージ(公職追放)に引っかかり、幣原はやむなくめて自らの内閣で外相を務めていた吉田を推したということであった。

 吉田は外交官一筋の人だったが、欧米勤務という主流を歩まず、言うならば外務省では「傍流」であった。日本の軍部への嫌悪感強く、一方で「日独伊三国同盟」への反対運動にも参画、さらには戦時中も戦争終結のため和平工作を画策したりした。この和平工作の企みが憲兵隊に漏れ、40日間にわたって監禁される「リベラル」ぶりであった。こうした行動が逆に幸い、パージをまぬがれたものだった。やがて、当時の外交官として最高ポストの駐英大使を務め、外相経験も手伝って、イギリス、アメリカの政治家ともパイプができ、「親英米派」に転じていくことになった。

 かくて、昭和21(1946)年5月16日、旧憲法下最後の大命が下り、吉田は5月22日、第一次内閣を発足させた。その組閣は決して唯々諾々のものではなく、大政翼賛選挙で非推薦で当選、自由主義者で知られた民政党の斎藤隆夫を国務大臣として入閣させるなど、気骨ぶりを示している。67歳、混迷日本の舵取りへの船出であった。

 第一次吉田内閣の使命は、大きく三つあった。

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