歴代総理の胆力「片山哲」(1)国の舵取りなど夢想だにしなかった

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歴代総理の胆力「片山哲」(1)国の舵取りなど夢想だにしなかった

 片山哲総理大臣は昭和22(1947)年5月、この国の政治史上、「初づくし内閣」としての登場だった。新憲法施行後の初の内閣であり、加えて保革連立のなかで初めて社会党党首として首班に推されたからである。

 その1カ月前の戦後第2回目の総選挙で、片山が委員長の日本社会党は比較第1党となり、これを機に中道政権の樹立を目論むGHQ(連合国軍総司令部)の意向により、第2党の自由党を与させぬ形で、民主党、国民協同党との3党連立による政権の誕生ということだった。その政権発足時は、片山が若い頃から弁護士の一方で敬虔なクリスチャンの人道主義者、人物また高潔が世に知られていて、内閣支持率は実に68%と極めて高いものだった。しかし、政権はわずか8カ月余りで投げ出さざるを得なかった。

 なぜなら、GHQの統制下で誰がやっても難しい政権運営ではあったが、片山は元々、この国の舵取りなど夢想だにしなかったことに大きな原因があった。

 いい例に、社会党が総選挙で第1党の地位を得たとき、片山はまず「弱った」とうつむいてしまったことがあった。左手に六法全書、右手に聖書を手にした片山は文字通りこれで“手一杯”、政治的手腕すなわち左手を十全に使いこなすことができなかったということだった。

 「政治は自己犠牲、献身の崇高な一つの精神運動、道義高揚の運動である。断じて、自己のためにすべきにあらず」の言葉は、総理就任から間もなくの「国民諸君に訴う」とした片山のラジオ放送(要約)からのものだが、ここであえて「政治は一つの精神運動、道義高揚の運動」と公言したところにも、一国のトップリーダーとしての限界があったと言えた。政治は一方で知略、時に謀略でしのぎ合うことも少なくなく、片山が主張する「精神性」とは、まったく異次元の“格闘技”であることに目をつむっていたということだった。

 しかし、8カ月余の間、ただうつむいていたかというと必ずしもそうでなく、災害救助、職業安定、児童福祉、刑法改正など、民主化の促進や国民生活の改善に必要な政策は成立させている。また、主食遅配の食糧難で餓死者も急増する中、GHQに掛け合って輸入食糧の放出にOKを取り付けてもいる。

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