田中角栄「怒涛の戦後史」(18)元自民党副総裁・金丸信(上)

| 週刊実話

 田中角栄と金丸信は、同じ佐藤(栄作)派で政治家としての流れを一にした。

 田中より4歳上の金丸は山梨県生まれ。東京農業大学専門部を卒業、一時、中学教師をやっていたが、いったん辞めて家業の醸造業を継いだ。その後、衆院選挙に打って出て、初当選後に佐藤派入りしたものだった。

 佐藤派には田中のほか、保利茂、愛知揆一、橋本登美三郎など実力者がそろっていた。そうした中で佐藤派入りした金丸であったが、しばらくは乱闘国会などで“鉄砲玉”として存在感を示す“体力派議員”と位置づけられていた。

 議員は、国会対策畑を主な活躍の場とする体力派と、頭脳勝負で法案づくりなどに励む政策派に、大きく二分される。これは、今日でもあまり変わっていない政界地図なのだ。

 さて、四角い顔をしてどこか茫洋とした雰囲気があり、性格は豪胆そうだが何を考えているのかよく分からぬ金丸は、かくて佐藤派では体力派に振り分けられた。金丸と親しかった政治部記者の、こんな証言が残っている。

「金丸は農大時代、柔道をやっていた。立ち技は得意だが、寝技はまったくダメだったそうです。加えて、『代議士初当選から本という本は一冊も読んだことがなく、すべて耳学問と経験則で動く男』などのエピソードも付いて回っていた。ただし、度胸のよさ、直感力の鋭さ、情報収集能力の高さは、陣笠代議士時代から知られていました。

 そのために、幹事長時代の田中などは、金丸によくこう言っていたそうです。『あんたは政治向きのことは考えんでいいから、(乱闘国会のときには)突っ込め』と」

 しかし、こうして佐藤派の中で揉まれているうちに、金丸は「調整役」としての才能を見せ始めた。金丸が佐藤派内で師事したのは、幹事長や官房長官を歴任した保利だったが、その“手法”を学んだということである。

 保利は座右の銘の「百術は一誠にしかず」を胸に、野党対策など“調整名人”として知られ、その手法は、「雪ちん(トイレのこと)詰めの保利」と言われていた。例えば、野党との折衝でも、泥棒を捕えるように一部屋一部屋シラミつぶしにしていき、結局、雪ちんに追い込んで捕えてしまうのに似ていたのである。捨て身の全力投球、巧緻を極めた調整が保利の持ち味であった。

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