田中角栄「怒涛の戦後史」(18)元自民党副総裁・金丸信(上) (2/3ページ)
のちに、「保利さんが俺の師匠だ」と胸を張った金丸は、保利流の「調整役」としての呼吸、ノウハウを身につけていた。国会対策委員長という与野党折衝の花形ポストに就いて腕を磨くことができたのも、保利の佐藤首相への強い推せんがあってのたまものだったのである。
★三木武夫に切った“仁義”
やがて、佐藤首相が退陣し、田中が佐藤派の大勢をまとめる形で、福田赳夫との「角福総裁選」に立ち向かうと、金丸は同じ党人派としての田中を支持することになった。金丸は、その天下分け目の総裁選で、早くも保利譲りの調整力を発揮した。
かつて、田中に「あんたは政治向きのことは考えんでいいから、突っ込め」と言われた、体力派からの脱却、変身を見せつけたということだった。
総裁選で田中は、政策協定により、田中、大平(正芳)、三木(武夫)派の三派連合に成功した。しかし、田中が第1回投票で過半数を取れずに決戦投票となった場合については、したたかさで鳴る三木は田中支持を約束しなかった。
自分と自らの派閥を高く売る戦術の妙にたける三木は、かねてからの異名である「バルカン政治家」の本領を、ここでも遺憾なく発揮したのである。
そのうえで三木は、総裁選ギリギリとなってから、田中にこんな決選投票での支持の“条件”を突きつけてきた。
「あなたが首相になって、日中国交回復に手を付けてくれるなら…」
結局、この三木と田中の“握手”は、東京・九段のホテル・グランドパレスの一室で行われることになった。このとき、田中に同行したのが金丸で、三木には策士としても聞こえた側近の毛利松平が付いていた。
金丸はこの場で、三木に向かって“仁義”を切ったのだった。
「三木先生、田中がもし日中問題をやらねば、私は田中派をおいとまし、三木先生のところにお世話になるつもりです。これは、私の約束です。国家と国民のため、どうか田中と手を握っていただきたい」
大事にあたって「国家と国民のため」と仰々しく持ち出すのは、また、金丸の一貫した“常套手段”であった。