田中角栄は金脈・女性問題の不明瞭さが原因で、わずか2年の「短命」で政権の座を追われ、退陣後1年半後にまたぞろというべきかロッキード事件に連座したカドで逮捕。起訴された。そのロッキード事件の長い裁判の過程で病魔に倒れ、ここに至ってようやく、その強大な政治権力にピリオドが打たれたものであった。
それにしても、これだけのスキャンダルを背負えば、並の政治家なら二度と権力に近寄ることなどは不可能だが、田中だけは“別格”だった。退陣直後は三木武夫、福田赳夫と政権が回る中ではジッとしていたものの、以後は気脈のあった大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の三代の政権を誕生させて影響力を発揮、その中曽根政権の半ばで無念の病魔に倒れたということだった。
さて、「闇将軍」と言われ、不死鳥のように権力を手中にできた奇跡的な背景、源泉は一体どこにあったのか。
大きく括れば、人が集まりやすい明るい性格、類いマレな人心収攬(しゅうらん)の妙にあったと言っていいようであった。
田中は読者諸賢すでにご案内のように、15歳で新潟から上京、泥水をすくいながら数々の職を渡り歩いた「叩き上げ」である。トゲの多い社会をくぐる中で、人がいま何を求めているか、何をどうすればこの人は動くかを、一瞬で見抜ける感性を体得した。言うなら、人を見抜くことにたけた「人間学博士」が、人間関係を構築していったと言ってよかった。長い間、田中の秘書をやっていた早坂茂三(のちに政治評論家)が言っていた。
「田中の人心収攬術というのは、言うなら『情と利』の両面から見ていいだろう。情にもろいし、政治家だから利をまったく考えないわけにもいかない。しかし、情が先行する。困ったヤツがいたら、黙っていられない。選挙で資金切れでピンチ、頭を下げて支援を頼まれれば、田中派でなくても助けに出る。
ここで凄いのは、『助けたのだから、オレの派閥に入れ』などとは、一切言わなかったことだ。利の部分は、まず引っ込めたままだ。むしろ、こうした情が、黙っていてものちに利になってハネ返ってくるという形だ」
そして、ピンチの議員に選挙支援のカネを届ける秘書に田中が申し渡したという話を、早坂はこう続けた。
「若い秘書には、とくに噛んで含めるように言っていた。