「降って湧いた」という表現があるが、この宇野宗佑ほど降って湧いた形で総理大臣の座を射止めた人物はいない。
昭和64(1989)年は1月7日に昭和天皇の崩御があり、その年はたった1週間で元号を「平成」と改めた。時の総理の竹下登がリクルート事件に連座、その責任を取る形で、与野党暗黙の了解のもと、平成元年度予算案の成立との“引き替え”で、竹下は4月25日、退陣を表明したのだった。
問題は、後継だった。しかし、「ポスト竹下」の有力候補とみられていた安倍晋太郎(現総理・安倍晋三の父)、宮沢喜一は、竹下同様、リクルート株の譲渡を受けていることが明らかになっていたことで、早々に“脱落”したものだった。
お鉢は、ために、竹下政権で自民党総務会長を務めていたベテランの実力者だった伊東正義に回った。しかし、“会津っぽ”として気骨のあった伊東は自民党のいつまでも縁の切れぬ「政治とカネ」に失望、「本の表紙を変えても中身が変わらなければ意味がない」と固辞した。言うなら、人がいなくなった中で、竹下は“緊急避難”としての宇野政権を誕生させたということだったのである。
時に、宇野は中曽根派幹部ながら「ミッチー」こと渡辺美智雄(元副総理)と派内ライバル関係を演じていた。しかし、竹下は「傀儡政権」を狙っていたことから、渡辺より“物分かり”のいい宇野に白羽の矢を立てたということだった。
また、一方で竹下は自ら退陣後の夏に、フランスでのサミット(主要先進国首脳会議)を控えており、それまで「口八丁手八丁」で与えられたポストを手堅くこなしてきた宇野なら、ある意味でハマリ役との思いが強かったようであった。
時に、当選10回、外務大臣をはじめ通産大臣、防衛庁長官、科学技術庁長官、行政管理庁長官を歴任、党でも幹事長代理として巧みな弁舌で対応してきた実績があった。
ところが、総理就任直後、毎日新聞に東京の花街・神楽坂の元芸者との関係をスッパ抜かれ、政権は一気に窮地に陥った。一方で、これが尾を引く中、フランスからのサミット帰国後、宇野を待っていたのは、何とも間の悪い参院選だったのである。
参院選は案の定、自民党の惨敗となった。