太田道灌VS豊島兄弟が激戦を展開「江古田原の合戦」は東京の局地戦

| 日刊大衆
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 古来より武蔵国(埼玉、東京、神奈川の一部)は多くの合戦の舞台となる一方、戦国史を紐解くと、東京の都心部(二三区)では意外に少なかったことが分かる。代表的なものは「高輪原の合戦(港区、品川区)」と「江古田原の合戦(中野区)」くらいで、いずれも江戸城を築いた道灌の太田家が関連し、特に後者は彼がまさに当事者。

 太田家は相模と武蔵を治める扇谷上杉の家宰(宿老の筆頭格)で、道灌は永享四年(1432)頃に生まれ、父である道真がなかなか隠居しなかったことからデビューは三〇歳と、やや遅かった。

 そんな彼が二二歳のとき、下総の古河に蟠踞していた足利成氏が、関東管領の上杉顕定(山内上杉家)や上杉定正(扇谷上杉家)と対立。京の幕府が伊豆の堀越(伊豆の国市)に送った足利政知(堀越公方)を両上杉が支え、享徳の乱と呼ばれる戦禍が関東一円に及んでいた。

 さらにこうした中、顕定の執事の職を争い、長尾景春が敵である古河公方の陣営と結託。武将として能力が高かった彼に武蔵、上野、相模の堀越公方陣営の国人衆が、こぞって加担した。

 道灌が属する堀越公方方はこうして窮地に陥り、古河公方軍に対する備えとして築いた前線の五十子陣(埼玉県本庄市)が文明九年(1477)正月、長尾軍の前に崩壊すると、首脳は北関東の上野に逃亡。当時、武蔵国でも豊島一族が景春方(古河公方陣営)となり、江戸城にいた道灌は孤立した。

 その豊島一族は鎌倉時代から続く桓武平氏の末裔で、豊島郡豊島(東京都北区)を本拠とし、ピーク時は二三区中、北部の一一区のほぼ全域に勢力を拡大。戦国時代にいくつかの家に分かれ、当時の宗家は石神井城(練馬区)城主の豊島勘か解由左衛門尉(名は泰経とされる)で、練馬城城主である豊島平右衛門尉(泰明とされる)の兄弟だった。

 ところが、道灌が江戸城を築き、古河公方軍に対する備えから、上杉方の居城だった川越城との間に軍用道(のちの川越街道)を通すと、ここが豊島兄弟の勢力圏を縦断する形となり、その勢力圏を浸食。豊島兄弟はそもそも道灌と同じ上杉方(堀越公方軍)に属していたが、こうして双方は敵対するようになったと考えられる。

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