尾崎豊「没後30年目の新証言」(5)六本木でケンカを売られた

| Asagei Biz
尾崎豊「没後30年目の新証言」(5)六本木でケンカを売られた

 編曲家・樫原伸彦が尾崎のライブにピアニストとして初めて参加したのは、85年11月1日だった。ただ、樫原がこれまで接したミュージシャンと尾崎は明らかに違っていた。十代の集大成となるツアーでありながら、あまりにも自由であった。

「えっ! 尾崎ってリハーサルに来たり来なかったりするんだ」

 それが第一印象である。

「満足なリハーサルもできないままどうなるんだろうと思いましたが、ただ、元からいるメンバーとの呼吸は完成されていました。どう間を取るかとか、プレイヤーの動きを中心としたフォーメーションは、全く心配することはなかったんです」

 それより樫原が驚いたのは、ツアー初日の四日市市文化会館から早くも始まった尾崎のテンションの高さである。噂には聞いていたが、高いところから飛び降りようとしたり、客席に飛び降りようとしたり、ハーモニカを放り投げ、ポカリスエットをぶちまけるなど、やりたい放題だった。

「スピーカーから飛び降りた時は『あ、こいつ、またやりやがったな』と思いました。飛び降りてケガしたんじゃなかったの、って聞きたくなるくらいに。僕はそれまで『雅夢』などヤマハ所属のアーティストをサポートすることが多かったのですが、おとなしめな彼らとは全く違うので、とにかく驚きの連続でしたね」

 樫原はバンドのメンバーになり、ツアーと並行して、打ち上げにも欠かすことなく顔を出すこととなる。

「イメージと違って、メンバーにもスタッフにも丁寧にお酌をして回る姿に驚きました。自分が座長であるので、素直に『お世話になっています』という感謝の念でしょうね」

 酒を飲むのが大好きだった尾崎は、酔ってくると口グセのようにつぶやく言葉があった。

「俺の最初のレコードって、どこに行っても全く売ってなかったんですよ」

 有名なエピソードだが、1stアルバム「十七歳の地図」は、初回プレスが2000枚とも1500枚とも言われている。そして樫原は、尾崎のもうひとつの酒グセもたびたび目撃する。

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