死に慣れることで薄まった当事者意識と、慣れたことで得られた恩恵

| 心に残る家族葬
死に慣れることで薄まった当事者意識と、慣れたことで得られた恩恵

新型コロナウイルスが猛威を奮い始めて2年以上が経った。増え続ける感染者数と毎日更新される重傷者、死亡者の数。自分が感染してしまうのではないか、高齢な家族が感染して重篤な状態になってしまうのではないかという恐怖に、多くの人々が疲弊していることだろう。このようなコロナ禍で、自分の死について、または家族の死について考えた人は多くいるのではないだろうか。そのような中、なぜコロナ禍で死の実感が薄れていると感じるのか述べていきたい。

■数字としての死者数

新型コロナウイルスが流行し始めた初期の日本では、死亡者数が一人増えただけでその事実がとても大きく報道された。この時点では、多くの人々の死に対する実感は大きいものだっただろう。自分も感染してしまうのではないかと、恐怖を感じた人も多くいるのではないか。しかし、今はどうだろうか、死者数は増え、その一人一人をクローズアップして取り上げる記事やニュースはほとんどなくなった。テレビ画面の片隅に小さく表示されるだけの死者数。それに私たちは何を感じるだろうか。それぞれの死亡者のストーリーが見えない数字だけの死者は、わたしたちに具体的に死を感じさせてはくれない。身近な人が重篤な状態にある人や、亡くなった人々に近しい人を除けば、残酷なことにそれはただの数字でしかなく、その裏に存在する実際に亡くなっていった人々に思いを馳せる人はほとんどいないのではないだろうか。

■薄くなる当事者意識

感染者の数はとどまることを知らない。自分も感染してしまったという人もいるだろう。しかし、若年層では気がつかないうちに感染して気がつかないうちに治ってしまった、中高年層でも、風邪のような症状で終わってしまったという人もいるだろう。多くの人が感染しても自分は大丈夫、自分は重症化しないと心のどこかで思っているのではないだろうか。そのような意識の中、どこか死と自分の存在が遠ざかっているのかもしれない。

■生活に溶け込む感染症

今までは死に慣れてしまったことの負の側面について触れてきたが、これからの時代、ある程度の慣れが生活の中でプラスになることもあるだろう。

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