猛スピードで物語が進んでいくNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。
前半の最大の見どころと思われた源平の戦いも、源義経一人の活躍で、あっという間に平氏を滅ぼしてしまいました。
ドラマの中でも度々「あれほど武門を誇った」と言わせる平氏を、こんなにポンコツに描いているのは、おそらく三谷幸喜独特の史観からなのでしょう。
しかし、それでは平氏が余りにも可哀そう。そこで、平氏にもこんなに立派で凄い人物がいたということを、滅びの美学という視点から紹介したいと思います。
今回は、一ノ谷の戦いに散った平忠度(たいら の ただのり)を2回に分けて紹介しましょう。
大力で武勇に優れた熊野育ちの公達都落ちの後、密かに藤原俊成の屋敷を訪ねる忠度。(写真:Wikipedia)
平忠度は、1141(天養元)年、平氏の棟梁・平忠盛の6男(清盛の異母弟)として生まれました。
忠度が誕生したのは、和歌山県新宮市熊野川町宮井の音川とされます。諸説ありますが、忠度の母は、熊野別当湛快の娘という伝説があり、宮中で女官を勤めているとき、忠盛に見染められ懐妊。実家の熊野に帰り、忠度を出産したとされるのです。