敗者から見た「鎌倉殿の13人」文武両道に優れた公達、誰もがその死を惜しんだ平忠度とは?【前編】 (2/3ページ)

Japaaan

熊野別当とは、熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)の統括にあたった僧で、僧兵軍団である強力な熊野水軍の統率者でした。

当時、熊野水軍は、都を脅かすほどの勢力を持っており、それを味方に付けるため、忠盛は熊野水軍の長と姻戚関係を結んだとも考えられます。

熊野三山の一つ熊野本宮大社。(写真:Wikipedia)

忠度は、18歳まで熊野に暮らしたとされ、その間に熊野三山の僧兵たちと、太刀や弓など武芸の修行に励んだのでしょう。これが忠度を「熊野育ち、大力の早業にていらっしゃった」と『平家物語』が書く所以です。

兄清盛が平氏政権を樹立すると、1178(治承2)年・従四位上、1179(治承3)年・伯耆守、1180(治承4)年・正四位下薩摩守と、忠度は順調に武家貴族としての階段を登っていきます。

しかし、1181(養和元)年2月に清盛が病死すると、平氏の未来に暗雲が立ち込めます。全国的な規模で反平氏の反乱が勃発し、これ以降、忠度も戦火に身を投じることになるのです。

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