「元久の法難」からくすぶる火種
浄土宗史上で、三つの大きな「法難」として「元久の法難」「建永の法難」「嘉禄の法難というのがあります。前回は、「元久の法難」について説明しました。
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元久の法難は、浄土宗の専従念仏をやめさせるよう朝廷に訴えられて、危うく浄土宗がピンチに陥った事件でした。これは朝廷の理解もあって難を逃れましたが、この時の火種はその後もくすぶり、今度は「建永の法難」が発生します。
この「建永の法難」では何が起きたのでしょうか。
これは「承元の法難」とも呼ばれており、興福寺が専修念仏を批判したのがきっかけとなり、ついに建永2年(1207年)に浄土宗の開祖である法然が流刑となった、一連の事件のことを指します。
元久2年(1205年)、興福寺は朝廷に、二度に渡って浄土宗の専修念仏の停止(ちょうじ)と法然およびその門弟に対する懲罰を求めました。「元久の法難」です。