名将御用達の兜の考案者
戦国武将に日根野弘就(ひねの・ひろなり)という人物がいます。1518年生まれの武将で、さまざまな人のもとに仕えたのですが、最後は戦国武将たちの中でも屈指の壮絶な亡くなり方をしています。
その亡くなり方は果たして嘘かまことか。人となり、その人生についてご紹介します。
弘就は戦国武将の中でもマイナーな存在ですが、実は、戦国時代によく使われた丸い鉢のような形の兜・日根野頭形(ひねのずなり)を考案した人物だと言われています。
そうした兜はもともと室町時代からありましたが、武具の研究を熱心に行っていた彼は、従来の丸い兜を改良します。
すると、改良後の兜の表面のカーブが鉄砲に対して有効だと評判になり、弘就の考案した兜は全国に広まります。この兜は、徳川家康や真田幸村、井伊直政など多くの武将が採用しました。
そんな彼が最初に仕えたのは、美濃の斎藤道三です。この後、彼が仕えた武将はことごとく滅びていきます。
必ず主君が滅びるこういう経歴はちょっと珍しいかも知れません。まず、道三が義龍に家督を譲ってからは義龍に仕えました(弘就は義龍の弟の暗殺に関わったとも言われています)。そして義龍の死後には、その息子の龍興に仕えます。