毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【後編】

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毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【後編】

毛利VS尼子!

【前編】では、戦国時代の石見銀山が世界的にも大きな存在感を持っていたことや、その領有権を巡って大内氏と尼子氏が争ったことを説明しました。

毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【前編】

さて、16世紀から石見を支配し、本格的に採掘をしていた大内氏ですが、大内義隆が没したところで石見銀山支配に乗り出してきたのが毛利元就です。

大内義隆の菩提寺である龍福寺の本堂(山口県)

彼は陶晴賢に対して勝利を収めるなどして台頭していき、一時は石見銀山を奪取しました。しかし忍原・降露坂の戦いなど、尼子晴久との抗争では敗北し、今度は奪い取られます。

が、1561年1月、居城である月山富田城内で晴久が47歳で急逝し、尼子家内に動揺が走ったところを元就は見逃さずに石見へ侵攻。

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