毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

晴久の後継となった尼子義久は和睦を試みますが、元就は反対に「石見不干渉」を条件として和平を持ちかけたのです。

尼子晴久像(山口県立山口博物館蔵・Wikipediaより)

このことからも、いかに石見銀山の存在感が大きかったかが分かりますね。義久は泣く泣くこの条件を呑むことにしました。

毛利元就の財力を支えた「銀」

こうして、1562年以降の20年間、石見銀山は毛利氏によって領有されることになります。

元就は、朝廷に石見銀山を献上し、銀100枚ほどを毎年上納することで、自分が銀山の正当な支配者であることを示したといいます。

石見銀山世界遺産センターの入口

元就はこのほかにも石見銀山を大いに活用しました。例えば石見銀を温泉津から出荷して、大陸との交易で拠点としていた赤間ケ関(現在の山口県下関)で、火薬の原料となる中国製の硝石を購入したりしています。

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