「戦いにルールなんかあるものか、勝てばいいのだよ、勝てばさ」
よくそんな事を言う手合いがいます。令和の現代だってそうなのだから、戦国乱世の戦さともなれば、ますますルール無用だったのかも知れません。
しかし子供の喧嘩ならばいざ知らず、集団同士の戦闘となれば、互いの連携なくして勝利をつかむのは難しいでしょう。
敵に対してはともかく、少なくとも味方同士では一定のルールが設けられ、その徹底が軍隊の士気≒戦闘力につながりました。
腕自慢百人がめいめい勝手に戦うよりも、非力であっても連携のとれた百人が団結する方が、実際の戦闘においては強いのです。
そこで大将は、戦に臨んで全軍へ軍令を発し、遵守させます。今回は「海道一の弓取り」と恐れられ、忍耐の末に天下を獲るに至った徳川家康(とくがわ いえやす)が発した軍令を紹介。
一つは天正18年(1590年)の小田原征伐、いま一つは慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦。それぞれ、どんな事が定められたのでしょうか。
家康のお達し~小田原編~