直秀ら散楽一座を斬った「検非違使(けびいし)」とは何?発祥から衰退までの歴史をたどる【光る君へ】

| Japaaan
直秀ら散楽一座を斬った「検非違使(けびいし)」とは何?発祥から衰退までの歴史をたどる【光る君へ】

検非違使(けびいし/けんびいし)。

ひとたび耳にすれば、日本人の多くが平安時代を連想するであろうその響き。皆さんはどうでしょうか。

少なくとも、戦国時代や幕末を思い浮かべる方は多くないと思います。

このように、平安時代のいち象徴として、王朝文化を彩った検非違使。彼らはいつごろから現れ、いつごろ姿を消したのでしょうか。

という訳で、今回は検非違使の歴史をたどってみたいと思います!

検非違使の始まりは平安時代初期

火災現場へ急行する検非違使たち。『伴大納言絵詞』より

検非違使が史料上に登場したのは平安時代初期の弘仁7年(816年)。実際の設置はもう少し前でしょう。平安京遷都(延暦13・794年)から20年ほど経ったころですね。

当時は桓武天皇が国軍に相当する軍団を廃止。国家が武力を放棄したため、凶悪犯罪が横行していたと言います。

このままでは、京都の治安を守ることが出来ません。そこで衛門府(ゑもんふ)の者たちに兼務させる形で検非違使が誕生しました。

非違(ひい)すなわち例に非(あら)ざること、そして法(のり)を違(たが)えること。これを検(あらた)むる天皇陛下のお使いです。

衛門府とは御所の門を護衛する官人たち。天皇陛下はじめ皇族がた、ひいては京都の治安を守るために奮い立ったのでしょうか。

やがて検非違使は組織的に独立、寛平7年(895年)には左右の衛門府においてそれぞれ検非違使庁(~ちょう)が設置されます。

左衛門府と右衛門府、互いの検非違使は連携・協力していたのか、あるいは対立していたのか気になりますね(たぶん後者ではないかと……)。

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